寄つて戸から覗くと桃色の寢衣を着た二十四五の婦人が腰を掛けて金髮を梳《す》いて居た。夜明の光で見た通りの美しい人である。長春《ちやうしゆん》から來て哈爾賓で後へ二つ繋がれた客車の人をも交ぜて三十人餘りの女の中で此婦人が出色《しゆつしよく》の人である。晝前にはもうどの男の室でも其噂がされて居たらしい。此若い露西亞婦人は令孃が百日咳《ひやくにちぜき》のやうな氣味である爲め冷たい空氣の入らないやうにと部屋の戸にも廊下の端の戸にも氣を配つて居た。晩餐の卓に就いて居た時、動き出さうとする汽車を目懸けて四羽の雁の足を兩手で持つて走つて來る男があつた。再び汽車が止まると食堂のボオイが降りて其雁を買つた。珍らし相に左の窓際の客が皆立つて見るのを、「何ですか」と日本語で問うた貴婦人があつた。齋藤氏は英語で其人と話をして居た。それは私を女優かと聞いたと云ふ紳士の令孃である。私の同室の人は夜になると母も子も烈しく咳をする。四日目にはバイカル湖が見える筈であると云つて誰も外の景色の變るのを樂しみにして居るやうであつたが、やつと二時頃に白い湖の半面が見え出した。汀《みぎは》に近い處は未だ皆氷つて居る。少し遠い青味を帶びた處は氷の解けて居る處であるらしい。また白い處があつて其向ふに水色の山が見える。幅の廣くない處と見えて山際の家の形が見樣に由つて見えない事もない。一間程の波が立つた儘で氷つて居るのも二三里の間續いた景色であつた。鏡の樣に氷が解けて光つた處には魚が居るらしく、船に乘つて釣をして居る人もあつた。此樣風《こんなふう》な渚も長く見て居る中にはもう珍らしく無くなつて東海道の興津邊を通る樣な心持になつて居た。六時に着く筈のイルクウツクで一時間停車して乘替を濟ませたのは十一時過ぎであつた。前の晩には金碧《きんぺき》の眩い汽車だと思つたが朝になつて見ると昨日迄のよりは餘程古い。窓も眞中に一つあるだけである。莫斯科《モスコオ》まで後がもう五晩あると思つて溜息を吐いたり、昨日《きのふ》も一昨日《をととひ》も出したのに又子供達に出す葉書を書いたりして居た。六日目に同室の婦人は後方の尼樣の樣な女の居る室に空席が出來たと云つて移つて行つた。汽車は玉の樣な色をした白樺の林の間|許《ばか》りを走つて居る。稀には牛や馬の多く放たれた草原も少しはある。牛乳とか玉子とか草花の束ねたのとかを停車場《ステエシヨン》毎《ごと》に女が賣りに來る。私の机の上にも古い鑵に水を入れて差された鈴蘭の花があつた。乘客係が來て莫斯科から連絡する巴里《パリイ》迄の二等車の寢臺が賣切れたから一等許りのノオルド・エキスプレスに乘つては何うかと云つた。八十圓増して出せば好いと云ふのである。露貨《ろくわ》は其樣《そんな》に持たない、佛貨《ふつくわ》を交《ま》ぜたら有るかも知れぬと云ふと、其でも好いと云ふ。兎に角八十圓を出して仕舞ふと、後は途中の食費と小遣いが十圓も殘るや殘らずになるのである。心細い話だと思つて私は考へたが、二等の寢臺車を待つために幾日《いくか》莫斯科に滯在せねば成らぬか知れない樣な事も堪へられないと思つて、結局佛貨で三十九圓六十錢出してノオルドの寢臺券を買つた。後四十圓は莫斯科で一等の切符と換る時に出すのだと云ふ事である。男の席はあると云ふので齋藤氏は二等車の寢臺券を買つた。
 川は二三町の幅のあるのも一間二間の小流《こなが》れも皆氷つて居る。積つた雪も其處だけ解けずにあるから、盛上つて痩せた人の靜脈の樣である。七日目《なぬかめ》にまた一人の露西亞女が私の室の客になつた。快活な風でよく話を仕懸ける人である。ウラルを越えていよいよ歐羅巴《ヨオロツパ》へ入つた。山の色も草木の色も目に見えて濃い色彩を帶びて來た。此邊では停車する毎にプラツト・フオオムの賣店へ寶石を買ひに降りる女が大勢ある。私も其店へ一度行つて見た。紫水晶の指の觸れ心地の好い程の大きさのを幾何《いくら》かと聞くと五十圓だと云つた。ロオズ・トツパアス、エメラルドなどが皮の袋の中からざらざらと音を立てて出されるのは、穀類の樣な氣持がする。夜の驛驛に點る黄な灯の色をしたトツパアスもあつた。其驛から巴里の良人《をつと》と莫斯科の石田氏とへ電報を出した。動搖《ゆれ》の烈しい汽車も馴れては此以外に自身の世界が無い樣な氣がして、朝は森に啼いて居る小鳥の聲も長閑《のどか》に聞くのである。ボオル大河の上で初めて飛んで居る燕を見た。木の間に湖が見えて其廻りを圍んだ村などが畫の樣である。露西亞字で書いた驛の名は固《もと》より私に讀まれない。曇色の建物の中に寺の屋根が金に輝いて居るのが悲しい心持を起させる。十六日の夜になつた。翌朝が待遠でならない。何時に起さうかとボオイが聞くので、六時に着くなら五時で好いと云つた。起される迄もない事であると心では可笑《
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