巴里まで
與謝野晶子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浦潮斯徳《ウラジホストツク》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)通信員|八十島氏《やそじまし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)アレキサンドロ※[#濁点付き片仮名ヲ、1−7−85]ウ
−−

 浦潮斯徳《ウラジホストツク》を出た水曜日の列車は一つの貨車と食堂と三つの客車とで成立つて居た。私の乘つたのは最後の車で、二人詰の端の室であるから幅は五尺足らずであつた。乘合の客はない。硝子《ガラス》窓が二つ附いて居る。浦潮斯徳に駐在して居る東京朝日新聞社の通信員|八十島氏《やそじまし》から贈られた果物の籠、リモナアデの壜《びん》、壽司の箱、こんな物が室の一隅に置いてあつた。手荷物は高い高い上の金網の上に皆載せられてあつた。浦潮斯徳の勸工場で買つて來た桃色の箱に入つた百本入の卷煙草と、西伯利亞《シベリア》の木で造られた煙草入とが机の上に置いてある。是等が黄色な灯で照されて居るのを私は云ひ知れない不安と恐怖の目で見て居るのであつた。終ひには兩手で顏を覆《おほ》うてしまつた。ふと目が覺めて時計を見ると八時過であつたから私は戸を開けて廊下へ出た。四つ目の室に齋藤氏が居る。其前へ行くと氏が見附けて直ぐ出て來た。食事が未だ濟まないと云ふと、食べないで居ると身體《からだ》が餘計に疲れるからと云つて、よろよろと歩く私を伴《つ》れて氏は一度|濟《すま》して歸つた食堂へ復《また》行つた。機關車に近いので此處は一層搖れが烈しいやうである。スウプとシチウとに一寸口を附けた丈で私は逃げるやうにして歸つて來た。其間に寢臺《ねだい》がもう出來て居た。十二時頃に留つた驛で錠を下してあつた戸が外から長い鍵で開けられた響きを耳元で聞いて私は驚いて起き上つた。支那の國境へ來たのであるらしい。入つて來たのは列車に乘込んだ役人と、支那に雇はれて居る英人の税關吏とである。荷物は彼れと是れかと云つて、見た儘手を附けないで行つた。三時半頃から明るくなり掛けて四時には全く夜が明けてしまつた。五時過に顏を洗ひに行くと、白い疎《まば》ら髭《ひげ》のある英人が一人廊下に腰を掛けて居た。ずつと向うの方には朝鮮人も起きて來て外
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング