》へ廻られる筈であるから、それを待つより巴里へ行かれる方が好いであらうと弟子は云ふのであつた。自分は良人と相談をして夫人への土産だけを出し、その弟子に托して名殘惜しい製作室を出て引き返さうとした。
「一寸お待ち下さい」
 と云ひながらその人は又自分達を中門の中まで案内して置いて母家の窓の下へ寄つて夫人に聲を掛けた。自分はこんな事をも面白くもゆかしくも思つた。大藝術家の夫人が窓越しに弟子の話すのを許すと云ふさばけた所作《しよさ》をさう思ふのであつた。此處からはずつと向うが見渡される。起伏した丘にあるムウドンの家竝《やなみ》や形の好い陸橋なども見える。此村は美觀村と云ふのださうである。
「奧さんがお目に掛りますからお待ち下さい」
 と弟子は云つて、又自分達をもとの製作室に伴《ともな》つた。そして前よりは一層|打解《うちと》けた調子で男達と弟子は話すのであつた。自分はまた男達と一緒に先生の未成品を眺めて居る事が出來るのであつた。まだ外に男の半身像や樣樣の石膏像が十ばかりも彼方此方に置かれてあつた。歸り途を聞くと、
「船にお乘りになるのが好いでせう。奧さんがお許し下すつたら私がその船乘場までお送りしませう」
 と弟子は云つた。その言葉の中にも夫人をどんなに尊敬して居るかと云ふ事が見えてゆかしい。ロダン夫人は無雜作に一方口の入口から入つて來られた。背の低い婦人である。白茶に白いレイスをあしらつた上被風《タブリエふう》の濶《ひろ》い物を着て居られる。自分の手を最初に執《と》つて、
「よくいらつしつた」
 と云はれた。松岡氏が自分に代つて面會を許された喜びを述べた。夫人の頭髮は白金の樣に白い。兩鬢《りやうびん》と髱《たぼ》を大きく縮らせたまま別別に放して置いて、眞中の毛を高く卷いてある。自分がロダン先生の曾て製作された夫人の肖像に寸分違ひのない方だと思つたのは、一つは髮の結樣《ゆひやう》が其儘の形だつたからかも知れない。夫人の斯うして居られるのは自身の姿が不朽[#「不朽」は底本では「不巧」]の藝術品として良人に作られた其喜びを何時迄も現はして居られる樣にも思はれるのであつた。そんな感じのするせいか、これ程の老夫人が母らしい人とは思はれないで、生生として人妻らしい婦人であると自分には思はれるのであつた。「未だ良人の許しを得ませんから今日は何のおもてなしを致す事も出來ませんが、この次は御招待をして寛《ゆる》りとして頂きます」などと夫人は懷しい調子で云はれるのであつた。
「一寸お待ちなさい」
 と云つて、夫人は母屋の方へ行かれた。暫くすると露の滴る紅薔薇の花を澤山持つて來られた。
「二三日雨が多かつたものですから、わたしの庭の一番好い花を切つたのですけれど、この通なんですよ」
 と云つて、夫人は花を自分に渡された。自分は心のときめくのを覺えた。夫人は自分達を船乘場まで馬車で送らせると云つてその用意を命ぜられるのであつた。其間に椅子へお座りなさいなどと自分の爲に色色と心を遣はれた。製作場の向側にはギリシヤ邊《あた》りの古い美術品かと思はれる彫刻を施した圓い石や角な石が轉がつて居るのであつた。馬車の用意が出來た頃弟子がもう一人歸つて來た。夫人は返す返す再會を約して手を握られた。自分達三人は馬車の上でどんなに今日の幸福を祝ひ合つたか知れない。世界の偉人が此馬車に乘つて毎日停車場や船乘場へ行かれるのであると思ふ時、右の肱掛の薄茶色の切がほつれかかつたのも尊く思はれた。この歸りに更にロダン先生に逢つた事の嬉しさを今此旅先で※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そうそう》と書いてしまふのは惜しい氣がする。暫く一人で喜んで居よう。
[#地から3字上げ](六月廿日)



底本:「定本 與謝野晶子全集 第二十卷 評論感想集七」講談社
   1981(昭和56)年4月10日第1刷発行
※疑問点の確認に当たっては、「巴里より」金尾文淵堂、1914(大正3)年5月3日発行を参照しました。
入力:Nana ohbe
校正:今井忠夫
2003年12月15日作成
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