が全部で無くても、大部分は古代藝術の自然の影響と、又意識して採擇した結果とであらうと想はれる。殊に女優の形と云ふものは希臘や伊太利の古美術に現はれた人體の美しい形を細密に亙つて研究して居るらしいから、其女優の形が上中流の婦人社會に影響するのは當然であらう。
自分が佛蘭西の婦人の姿に感服する一つは、流行を追ひながら而も流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用ひ、一概に盲從して居ない事である。自分は三四着の洋服を作らす參考にと思つて目に觸れる女の服裝に注意して見たが、色の配合から釦《ブトン》の附け方まで同じだと云ふ物を一度も見たことが無い。仕立屋《タイユウル》へ行けば流行の形の見本を幾つも見せる。誂《あつら》へる女は決して其見本に盲從する事なく、其れを參考として更に自分の創意に成る或物を加へて自分に適した服を作らせるのである。
又感服した一つは、身に過ぎた華奢《くわしや》を欲しない儉素な性質の佛蘭西婦人は、概して費用の掛らぬ材料を用ひて、見た目に美しい結果を收めようとする用意が著しい。此點は京都の女と似通つた所がある。富んだ女が絹を用ひる所を麻で濟ませ、麻も日本などに比べて非常に高價であるから、麻の所を更に木綿で濟ませて居ると云ふのが普通である。模造品の製造が巧であるから木綿でも麻や絹に見える上に、着る人の配色が調和を得て居るので、絹を着たのと同じ美しさを示して居る場合が多い。
歐洲の女は何うしても活動的であり、東洋の女は靜止的である。靜止的の美も結構であるけれど、何うも現代の時勢には適しない美である。自分は日本の女の多くを急いで活動的にしたい。而うして、其れは決して不可能で無い許りか、自分は歐洲へ來て見て、初めて日本の女の美が世界に出して優勝の位地を占め得ることの有望な事を知った。唯其れには内心の自動を要することは勿論、從來の樣な優柔不斷な心掛では駄目であるが、其れは教育が普及して行く結果現に穩當な覺醒が初まつて居るから憂ふべき事ではない。但し女の容貌は一代や二代で改まる物で無いと云ふ人があるかも知れないが、自分は日本の女の容貌を悉く西洋婦人の樣にしようとは願はない。今の儘の顏立でよいから、表情と肉附の生生とした活動の美を備へた女が殖えて欲しい。髮も黒く目も黒い日本式の女は巴里にも澤山にある。外觀に於て巴里の女と似通つた所の
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング