で居るは悪いと思つたらしい柔順な子は、
『熊七。』
と傍へ立つて低い声で云つて居た。熊七はどんな顔をしたのか知らない。秀にも三畳へ行つてやれと云つたが笑つてばかり居た。書生の兒玉が帰つてから熊七は二重橋から銀座辺の見物に出掛けて行つた。土産物を持つて二人の女の子と一緒に元園町の修さんの家へ行つた。千歌子さんと話して居るうちに暗くなつたので、自身の家の外では夜に逢つたことのないわたしの子は声を揃へて泣き出した。お文さんと女中とに一人づつ負ぶさつて帰つて来た。途中お文さんと話して居ながら味気ないはかない心持をどれだけわたしはしたか分らない。鰯のすしと玉子の煮たので夕飯を食べてから湯に子供を入れた。髪を撫でて灯の点つた書斎に入つて万朝の歌の撰をしようとした。私の机の上に、
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上総国周淮郡に未珠名[#「未珠名」はママ]と云ふ娘が居た。娘は生れながら悧発な上に美くしく、乳のあたりがふくやかに腰は気もちよく細かつた。それで以似蜂娘子と綽名で呼んで居る男も多かつた。娘の年はよくわからない、娘に聞いて見ると二十だとも二十一だとも云つた。しかし大底の人には十九だと答へたやうだ。けれどその後ではきつと女の十九と云ふのはいい年でございますねと付け加へて居たのを見るとそれも当にはならない。娘の評判が立つと用もないのにその門を往来したり遠まはりしたりする男は沢山あつたものだ。
娘は毎日美くしい蜂が花から密を運ぶやうに仕事のやうにまた慰みのやうに草を干したり水を汲んだりして居た。娘の家の直ぐ前を川が流れて居た。
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こんな書きさしの原稿が置いてある。江南さんのお書きになりさうなものだと思ふのであるが佐藤さんのやうでもある。硯の下から大學さんのはがきと三田の文学会の切符が七八枚出たのでいよいよ佐藤さんのだと思つた。歌の撰を清書だけ明日に残して帰つて来た熊七の見て来た話を聞いた。



底本:「早稲田文学」早稲田文学社
   1912(明治45)年1月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
2003年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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