されるやうに苦しく思つた。気を強く持つて書斎へ入つて、立つ朝飲みさしの葉巻を良人が机の上に置いて行つたのを思ひ出して、どうしてもそれを飲まなければならないやうな気がするので其処等を捜したが見当らなかつた。良人の机の上に今朝来たらしい相馬さんの郵便があつたのを開いて読んだ。わたしは又ふらふらと応接室へ入つて行つてカメリヤを飲んで居た。松が留守に来た郵便を一まとめにして持つて来た。一番上にあるのが一昨日の夕方大阪の心斎橋通りを歩いて一緒に戎橋を渡つて難波の停車場で別れた茅野さんの手紙である。
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晶子様
難波の停車場で私は少し何うかして居ました。急いで停車場から飛出した私は、また大急ぎでプラツトホオムヘ飛込みました。そして奥様を捜して電車の中へ飛込みました。それは最う奥様の乗つて居られた電車が出て了つたその次ぎの車なのでした。
今朝は七条へ行つて今一度奥様の強い方面を見度い、確りして居る処を見たかつたのです。それからあなたの好きさうな友染か何かを驚く程沢山贈つてあげ度いやうな気がしました。お宅へお帰り迄の手すさびに。
云ひ度いと思ふやうなことは一言も云ひ得ずに了ひました。併し大概わかつて居て下さるでせう。私は私の弱い方面を奥様に見せ度くありませんでした。何かの時には尤も冷静、沈着に処理して行くことの出来る男だと思つて居て下さい。私は確かにさう云ふ方面をも持つて居ます。[#「。」は底本では脱落]リヒヤルド、デエメルが斯う云つて居ます。[#「。」は底本では脱落]「されども恋は  〔Tru:be〕 なり」〔Tru:be〕 とは曇ると云ふ意味とうら悲しいと云ふ意味をも持つて居ます。私はそれに「永久に」と附加して置き度い。併し貴女は強い人でせう。
こんな手紙を書いても決して奥様を慰められやうとは思ひません。言葉ではないです。併し私の心でも今のあなたの心を慰められないでせう。時をたのむより仕方が無いでせう。
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むつかしい事の書いてある処よりも友染と云ふ字のある処を何度もわたしは見た。良人の留守に来た郵便物は読んだ手紙も一緒に柳行李の小いのにしまつて置いて、帰つた時に見せるのが今迄の習はしであつたのであるが、今度はそんなことも出来ないと思ひながら、入用の物、返事の入る物、歌の詠草などと撰り分けて処理するのが何とも云ひやうのない重くるしい仕事に思はれてならなかつた。熊七がもう着く頃であるとふと気が附いた。十一時半である。松に門の前へ出て見て居てくれと云つた。金尾さんを老人にしたやうな、それよりも痩せて穢い背の屈んだ人だとわたしは云つた。その後で番頭の熊七は絵草紙にある孫悟空に生写しであると妹と云つて笑つた昔の日のことが思ひ出されて微笑まずに居られなかつた。遊びに来て居た女の子達に豆人形を出して分けて持たせて帰すと、わたし等も欲しいと七瀬と八峯が云ふので、三つ持つて帰つた土焼の舞子を佐藤さんの分を一つだけ残して跡を遣つてしまつた。麟が帰つて来た。[#「。」は底本では脱落]もう大丈夫だと云ふことである。松が待ちあぐんで家へ入つて来た後から間もなく熊七は来た。
『小い子が悪くてね。』
顔を見るなりこんなことを云つたのを私はその後で直ぐ後悔した。旧い奉公人の誰も彼も去つた跡の駿河屋に一人残つて居る正直な番頭がたまたま店の休業中に東京を見物しようとして来たのであるから。
『嬢《とう》ちやんだすか、可愛らしいおますな。』
と熊七は二人の女の子を見て云つた。
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『お賢うおますな、内ではあまりお子様方を可愛がりはりますので、ようおまへんと心配でな。』
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とも云つた。江南さんの秋子さんが千代紙を持つて来て下すつた。秋子さんと一緒に昨日別家から貰つて来た焼かまぼこと吸物で昼の食事をした。熊七は風呂場の傍の三畳に入つて此処で結構だと云つて茶の間の火鉢の処へも出て来ない。佐藤さんの人形を秋子さんに見せて居たが、顔が生田さんの奥さんに似て居ることに気が附いた。二時半になつたからお帰りになる秋子さんと一緒に一番町の通まで光と秀の帰つて来るのを迎へに行つた。坂を上つてくる帽の上から見てよく似た子は七八人も違つた子で、やつと後に讓さんと三人連れでわたしの子は坂を上つて来た。
『母さんが居ますよ。』
と珍しさうにも思はない声で秀が兄に知らせて居た。秋子さんと別れた。
『お父さんはもう行つてしまつたの。』
と云ふのを初めにいろいろの質問を私の小い友達はする。船中の事ばかりで京や大阪やわたしの古郷の事などは聞いて呉れさうにもない。
『熊七。』
と大きい声で云つてやつて御覧と道を歩きながらわたしが云つた時光は受合つて居ながら、家へ入ると耻しくなつたと見えて、それで居て云はない
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