た者さえあります。正気を乱した彼らは、自分たちが非常手段を取るに到った主要な目的までを忘れているのです。
私は漁民の妻女がやむをえずして取ったような純粋な食糧に本づく最後の非常手段以外に、そういう乱民的暴行の演ぜられたことを、私たち民衆の名に対して赤面して恐懼《きょうく》します。現代の民衆の運動は、出来るだけ自覚的に一貫した意義があり、規律があり節制のあるものでなくてはなりません。相互に愛し扶助すべき民衆が――殊に民衆のために間接の殺人者略奪者である少数の権力階級と財力階級とに猛省を促そうとして奮起した民衆が――相互に殺しかつ掠奪するに到っては沙汰の限りだと思います。
これについて、東京女子高等師範学校長の湯原元一《ゆはらもといち》氏は、我国の教育の無力であったことに驚かれたようですが、私は必ずしもそう[#「そう」に傍点]は思いません。かえって文部省の教育の効果がここに現れているのではないかと思うのです。普通教育において時代遅れの歴史的武士道的道徳と浪華節《なにわぶし》以上に出ていない義理人情とを教えて、人間としての愛と権利義務思想とを教えないで置けば、自己の死活に関する大問題の前に、こういう無秩序、不節制、不仁狂暴の動物的妄動を敢てするに到るものであるかと思って、私はむしろ官僚教育の効果の大いなるのに驚く者です。
さて着眼点を更《か》えて私は思います。寺内内閣は、どうして民衆の生命に関する問題をこうまで危険に瀕《ひん》せしめたのでしょうか。どうして民衆の精神と行為をこうまで動物的に逆転せしめたのでしょうか。
昔の哲人は「いまだ兆《きざ》さざる時は謀《はか》りやすし」といい、「これをいまだ乱れざるに治めよ」と言いました。寺内内閣にして早く就任当時においてこれに気が附いていたならば、これに備えて禍を未然に防ぐだけの時日は十分にあったのです。物価の法外な騰貴は決して今年に入って以来の現象ではなく、二年以前において既に何人にも目に余る事実であったのですが、政府当局者は常に楽観的大言を放って、在野の識者の忠告に耳を仮さず、物価暴騰の原因である通貨の膨脹、物資供給の減少、投機的資本家の買占、運輸機関の不足等について、何らの臨機の施設をも断行しませんでした。そうして最近に及んで遅れ馳《ば》せに暴利取締令を出したり、全国にわたって十|石《こく》以上の貯蔵米を申告させたり、御用商人に托して外米の輸入を計ったりしたような事が、かえって一層米価の暴騰を激成する結果となりました。
寺内内閣はこうして自己の秕政に気附かず、反対に首相寺内氏は政綱として常に善政主義を唱え、国民の物質生活には自給自足主義を以て楽観し、お門違いにも文学者の思想を危険視してその方面の出版物に発売禁止を濫行し、露西亜の過激派を憎んでチェック軍と共に征討の兵を浦塩《ウラジオ》に出すようなことをしながら、自国の民衆の無産階級から一種の過激派的暴動を突発するに到るような危険状態の原因を寺内内閣自身が醸成しつつあることに想い到らなかったのでした。
食糧騒動が突発して燎原《りょうげん》の勢で拡大するに及んで、一方に軍隊の力を以て民衆を威圧すると共に、倉皇として穀物収用令を出したり、富豪の義金を促して内外米の廉売を初めさせたりして、当面の食糧不足を救済しようとしているのですが、最後には民衆に向って兵力を用い、併せて一種の「施し」である慈善行為の中に一般民衆を乞食扱にする政治が、どうして寺内氏の口癖のような善政といわれるでしょうか。私は現に市役所で売る廉米を買って、その時価よりも十銭近く廉《やす》いという実際の利益を十分に嬉しく感じながらも、一面では、寺内内閣の施設さえ早く宜しきを得ていたら、こうした心にもない恩恵を受けなくても済むものをと思って、一種の遺憾と不快とを抑えることが出来ません。
寺内内閣が天下の器でないことは、このたびの暴動を激成したことに由って余りに明かになりました。国民は既に挙《こぞ》って寺内内閣の弔鐘を打っております。
寺内内閣が直ぐに崩壊すると否とにかかわらず、また食糧騒動がこれきり鎮静すると否とにかかわらず、物価暴騰の事実は依然重大な社会事実として残っております。恩恵的行為である、内外米の廉売の如きは、目前の危急を一時的に救う変則的調節策に過ぎません。為政者は異常の時に異常の策を撰んで、米の不足を補うために本年度の酒造を全く禁止するも宜しいでしょう。食糧を初めその他の第一必要品の配給を容易にするためには、船腹の不足を補って多数の軍艦を代用するも好く、全国の汽車をそれらの運輸のために臨時に無賃とするも好いでしょう。また私たち無産階級のみが外米を食べるのでなくて、河上肇《かわかみはじめ》博士の説の如く、貴族と有産階級とに論なく、臨機の処置として国民全体が一
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