と》かを弾きぬ。
どす黒く青き筋肉の蛇の節《ふし》廻し………

わが知れる芸術家の集りて、
女と酒とのある処《ところ》、
ぐれんどうの命《みこと》必ず暴風《あらし》の如《ごと》く来《きた》りて罵《のゝし》り給《たま》ふ。

何処《いづこ》より来給《きたま》ふや、知り難《がた》し、
一所《いつしよ》不住《ふぢゆう》の神なり、
きちがひ茄子《なす》の夢の如《ごと》く過ぎ給《たま》ふ神なり。

ぐれんどうの命《みこと》の御言葉《みことば》の荒さよ。
人皆その眷属《けんぞく》の如《ごと》くないがしろに呼ばれながら、
猶《なほ》この神と笑ひ興ずることを喜びぬ。


    焦燥《せうさう》

あれ、あれ、あれ、
後《あと》から後《あと》からとのし掛つて、
ぐいぐいと喉元《のどもと》を締める
凡俗の生《せい》の圧迫………
心は気息《いき》を次《つ》ぐ間《ま》も無く、
どうすればいいかと
唯《た》だ右へ左へうろうろ………

もう是《こ》れが癖になつた心は、
大やうな、初心《うぶ》な、
時には迂濶《うくわつ》らしくも見えた
あの好《す》いたらしい様子を丸《まる》で失ひ、
氷のやうに冴《さ》えた
細身の刄先《はさき》を苛苛《いらいら》と
ふだんに尖《とが》らす冷たさ。

そして心は見て見ぬ振《ふり》……
凡俗の生《せい》の圧迫に
思ひきりぶつ突《つ》かつて、
思ひきり撥《は》ねとばされ、
ばつたり圧《お》しへされた
これ、この無残な蛙《かへる》を――
わたしの青白い肉を。

けれど蛙《かへる》は死なない、
びくびくと顫《ふる》ひつづけ、
次の刹那《せつな》に
もう直《す》ぐ前へ一歩、一歩、
裂けてはみだした膓《はらわた》を
両手で抱きかかへて跳ぶ、跳ぶ。
そして此《こ》の人間の蛙《かへる》からは血が滴《た》れる。

でも猶《なほ》心は見て見ぬ振《ふり》……
泣かうにも涙が切れた、
叫ぼうにも声が立たぬ。
乾いた心の唇をじつと噛《か》みしめ、
黙つて唯《た》だうろうろと※[#「足+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くのは
人形だ、人形だ、
苦痛の弾機《ばね》の上に乗つた人形だ。


    人生

被眼布《めかくし》したる女にて我がありしを、
その被眼布《めかくし》は却《かへ》りて我《わ》れに
奇《く》しき光を導き、
よく物を透《とほ》して見せつるを、
我が行《ゆ》く方《かた》に淡紅《うすあか》き、白き、
とりどりの石の柱ありて倚《よ》りしを、
花束と、没薬《もつやく》と、黄金《わうごん》の枝の果物と、
我が水鏡《みづかゞみ》する青玉《せいぎよく》の泉と、
また我に接吻《くちづ》けて羽羽《はば》たく白鳥《はくてう》と、
其等《それら》みな我の傍《かたへ》を離れざりしを。

ああ、我が被眼布《めかくし》は落ちぬ。
天地《あめつち》は忽《たちま》ちに状変《さまかは》り、
うすぐらき中に我は立つ。
こは既に日の入《い》りはてしか、
夜《よ》のまだ明けざるか、
はた、とこしへに光なく、音なく、
望《のぞみ》なく、楽《たのし》みなく、
唯《た》だ大いなる陰影《かげ》のたなびく国なるか。

否《いな》とよ、思へば、
これや我が目の俄《には》かにも盲《し》ひしならめ。
古き世界は古きままに、
日は真赤《まつか》なる空を渡り、
花は緑の枝に咲きみだれ、
人は皆春のさかりに、
鳥のごとく歌ひ交《かは》し、
うま酒は盃《さかづき》より滴《したゝ》れど、
われ一人《ひとり》そを見ざるにやあらん。

否《いな》とよ、また思へば、幸ひは
かの肉色《にくいろ》の被眼布《めかくし》にこそありけれ、
いでや再びそれを結ばん。
われは戦《をのゝ》く身を屈《かゞ》めて
闇《やみ》の底に冷たき手をさし伸ぶ。

あな、悲し、わが推《お》しあての手探りに、
肉色《にくいろ》の被眼布《めかくし》は触るる由《よし》も無し。
とゆき、かくゆき、さまよへる此処《ここ》は何処《いづこ》ぞ、
かき曇りたる我が目にも其《そ》れと知るは、
永き夜《よ》の土を一際《ひときは》黒く圧《お》す
静かに寂《さび》しき扁柏《いとすぎ》の森の蔭《かげ》なるらし。


    或る若き女性に

頼む男のありながら
添はれずと云《い》ふ君を見て、
一所《いつしよ》に泣くは易《やす》けれど、
泣いて添はれる由《よし》も無し。

何《なに》なぐさめて云《い》はんにも
甲斐《かひ》なき明日《あす》の見通され、
それと知る身は本意《ほい》なくも
うち黙《もだ》すこそ苦しけれ。

片おもひとて恋は恋、
ひとり光れる宝玉《はうぎよく》を
君が抱《いだ》きて悶《もだ》ゆるも
人の羨《うらや》む幸《さち》ながら、

海をよく知る船長は
早くも暴風《しけ》を避《さ》くと云《い》ひ、
賢き人は涙もて
身を浄《きよ》むるを知ると云《い》ふ。

君は何《いづ》れを択《えら》ぶらん、
かく問ふことも我はせず、
うち黙《もだ》すこそ苦しけれ。
君は何《いづ》れを択《えら》ぶらん。


    君死にたまふことなかれ
[#地から3字上げ](旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末《すゑ》に生れし君なれば
親のなさけは勝《まさ》りしも、
親は刄《やいば》をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四《にじふし》までを育てしや。

堺《さかい》の街のあきびとの
老舗《しにせ》を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事《なにごと》ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家《いへ》の習ひに無きことを。

君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出《い》でまさね[#「まさね」は底本では「ませね」]、
互《かたみ》に人の血を流し、
獣《けもの》の道《みち》に死ねよとは、
死ぬるを人の誉《ほま》れとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何《いか》で思《おぼ》されん。

ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君《ちゝぎみ》に
おくれたまへる母君《はゝぎみ》は、
歎きのなかに、いたましく、
我子《わがこ》を召《め》され、家《いへ》を守《も》り、
安《やす》しと聞ける大御代《おほみよ》も
母の白髪《しらが》は増さりゆく。

暖簾《のれん》のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻《にひづま》を
君忘るるや、思へるや。
十月《とつき》も添はで別れたる
少女《をとめ》ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰《たれ》を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。


    梅蘭芳に


うれしや、うれしや、梅蘭芳《メイランフワン》
今夜、世界は
(ほんに、まあ、華美《はで》な唐画《たうぐわ》の世界、)
真赤《まつか》な、真赤《まつか》な
石竹《せきちく》の色をして匂《にほ》ひます。
おお、あなた故に、梅蘭芳《メイランフワン》、
あなたの美《うつ》くしい楊貴妃《やうきひ》ゆゑに、梅蘭芳《メイランフワン》、
愛に焦《こが》れた女ごころが
この不思議な芳《かんば》しい酒となり、
世界を浸《ひた》して流れます。
梅蘭芳《メイランフワン》、
あなたも酔《ゑ》つてゐる、
あなたの楊貴妃《やうきひ》も酔《ゑ》つてゐる、
世界も酔《ゑ》つてゐる、
わたしも酔《ゑ》つてゐる、
むしやうに高いソプラノの
支那《しな》の鼓弓《こきう》も酔《ゑ》つてゐる。
うれしや、うれしや、梅蘭芳《メイランフワン》。


    京之介の絵
[#地から4字上げ](少年雑誌のために)

これは不思議な家《いへ》の絵だ、
家《いへ》では無くて塔の絵だ。
見上げる限り、頑丈《ぐわんぢやう》に
五階重ねた鉄づくり。

入口《いりくち》からは機関車が
煙を吐いて首を出し、
二階の上の露台《ろたい》には
大《だい》起重機が据ゑてある。

また、三階の正面は
大きな窓が向日葵《ひまはり》の
花で一《いつ》ぱい飾られて、
そこに誰《たれ》やら一人《ひとり》ゐる。

四階《しかい》の窓の横からは
長い梯子《はしご》が地に届き、
五階は更に最大の
望遠鏡が天に向く。

塔の尖端《さき》には黄金《きん》の旗、
「平和」の文字が靡《なび》いてる。
そして、此《この》絵を描《か》いたのは
小《ち》さい、優しい京之介《きやうのすけ》。


    鳩と京之介
[#地から4字上げ](少年雑誌のために)

秋の嵐《あらし》が荒《あ》れだして、
どの街の木も横倒《よこたふ》し。
屋根の瓦《かはら》も、破風板《はふいた》も、
剥《は》がれて紙のやうに飛ぶ。

おお、この荒《あ》れに、どの屋根で、
何《なに》に打たれて傷《きず》したか、
可愛《かは》いい一羽《いちは》のしら鳩《はと》が
前の通りへ落ちて来た。

それと見るより八歳《やつ》になる、
小《ち》さい、優しい、京之介《きやうのすけ》、
嵐《あらし》の中に駆け寄つて、
じつと両手で抱き上げた。

傷《きず》した鳩《はと》は背が少し
うす桃色に染《そ》んでゐる。
それを眺めた京之介《きやうのすけ》、
もう一《いつ》ぱいに目がうるむ。

鳩《はと》を供《く》れよと、口口《くちぐち》に
腕白《わんぱく》どもが呼ばはれど、
大人《おとな》のやうに沈著《おちつ》いて、
頭《かぶり》を振つた京之介《きやうのすけ》。


    Aの字の歌
[#地から4字上げ](少年雑誌のために)

Ai《アイ》 (愛《あい》)の頭字《かしらじ》、片仮名と
アルハベツトの書き初《はじ》め、
わたしの好きなA《エエ》の字を
いろいろに見て歌ひましよ。

飾り気《け》の無いA《エエ》の字は
掘立《ほつたて》小屋の入《はひ》り口《くち》、
奥に見えるは板敷《いたじき》か、
茣蓙《ござ》か、囲炉裏《いろり》か、飯台《はんだい》か。

小《ち》さくて繊弱《きやしや》なA《エエ》の字は
遠い岬に灯台を
ほつそりとして一つ立て、
それを繞《めぐ》るは白い浪《なみ》。

いつも優しいA《エエ》の字は
象牙《ざうげ》の琴柱《ことぢ》、その傍《そば》に
目には見えぬが、好《よ》い節《ふし》を
幻《まぼろし》の手が弾いてゐる。

いつも明るいA《エエ》の字は
白水晶《しろずゐしやう》の三稜鏡《プリズム》に
七《なな》つの羽《はね》の美《うつ》くしい
光の鳥をじつと抱く。

元気に満ちたA《エエ》の字は
広い沙漠《さばく》の砂を踏み
さつく、さつくと大足《おほあし》に、
あちらを向いて急ぐ人。

つんとすましたA《エエ》の字は
オリンプ山《ざん》の頂《いただき》に
槍《やり》に代へたる銀白《ぎんはく》の
鵞《が》ペンの尖《さき》を立ててゐる。

時にさびしいA《エエ》の字は
半身《はんしん》だけを窓に出し、
肱《ひぢ》をば突いて空を見る
三角|頭巾《づきん》の尼すがた。

しかも威《ゐ》のあるA《エエ》の字は
埃及《エヂプト》の野の朝ゆふに
雲の間《あひだ》の日を浴びて
はるかに光る金字塔《ピラミツド》[#ルビの「ピラミツド」は底本では「ピラミツト」]。

そして折折《をりをり》A《エエ》の字は
道化役者のピエロオの
赤い尖《とが》つた帽となり、
わたしの前に踊り出す。


    蟻の歌
[#地から4字上げ](少年雑誌のために)

蟻《あり》よ、蟻《あり》よ、
黒い沢山《たくさん》の蟻《あり》よ、
お前さん達の行列を見ると、
8《はち》、8《はち》、8《はち》、8《はち》、
8《はち》、8《はち》、8《はち》、8《はち》……
幾万と並んだ
8《はち》の字の生きた鎖が動く。

蟻《あり》よ、蟻《あり》よ、
そんなに並んで何処《どこ》へ行《ゆ》く。
行軍《かうぐん》か、
運動会か、
二千メエトル競走か、
それとも遠いブラジルへ
移住して行《ゆ》く一隊か。

蟻《あり》よ、蟻《あり》よ、
繊弱《かよわ》な体で
なんと云《い》ふ活撥《くわつぱつ》なことだ。
全身を太陽に暴露《さら》して、
疲れもせず、
怠《なま》けもせず、
さつさ、さつさと進んで行《
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