ぬ間《ま》に
石から虹《にじ》が舞ひあがる。
寝てゐた豹《へう》の目が光る。
    ×
われにつれなき今日《けふ》の時、
花を摘み摘み行《ゆ》き去りぬ。
唯《た》だやさしきは明日《あす》の時、
われに著《き》せんと、光る衣《きぬ》
千《ち》とせをかけて手に編みぬ。
    ×
がらすを通し雪が積む、
こころの桟《さん》に雪が積む、
透《す》いて見えるは枯れすすき、
うすい紅梅《こうばい》、やぶつばき、
青いかなしい雪が積む。
    ×
はやりを追へば切りがない、
合言葉をばけいべつせい。
よくも揃《そろ》うた赤インキ、
ろしあまがひの左書《ひだりが》き、
先《ま》づは二三日《にさにち》あたらしい。
    ×
うぐひす、そなたも雪の中、
うぐひす、そなたも悲しいか。
春の寒さに音《ね》が細る、
こころ余れど身が凍《こほ》る。
うぐひす、そなたも雪の中。
    ×
あまりに明るい、奥までも
開《あ》けはなちたるがらんだう、
つばめの出入《でいり》によけれども
ないしよに逢《あ》ふになんとせう、
闇夜《やみよ》も風が身に沁《し》まう。
    ×
摘め、摘め、誰《た》れも春の薔薇《ばら》、
今日《けふ》の盛りの紅《あか》い薔薇《ばら》、
今日《けふ》に倦《あ》いたら明日《あす》の薔薇《ばら》、
とがるつぼみの青い薔薇《ばら》、
摘め、摘め、誰《た》れも春の薔薇《ばら》。
    ×
己《おの》が痛さを知らぬ虫、
折れた脚《あし》をも食《は》むであろ。
人の言葉を持たぬ牛、
云《い》はずに死ぬることであろ。
ああ虫で無し、牛でなし。
    ×
夢にをりをり蛇を斬《き》る、
蛇に巻かれて我が力
為《し》ようこと無しに蛇を斬《き》る。
それも苦しい夢か知ら、
人が心で人を斬《き》る。
    ×
身を云《い》ふに過ぐ、外《ほか》を見よ、
黙黙《もくもく》として我等あり、
我が痛さより痛きなり。
他《た》を見るに過ぐ、目を閉ぢよ、
乏しきものは己《おの》れなり。
    ×
論ずるをんな糸|採《と》らず、
みちびく男たがやさず、
大学を出ていと賢《さか》し、
言葉は多し、手は白し、
之《こ》れを耻《は》ぢずば何《なに》を耻《は》づ。
    ×
人に哀れを乞《こ》ひて後《のち》、
涙を流す我が命。
うら耻《はづ》かしと知りながら、
すべて貧しい身すぎから。
ああ我《わ》れとても人の中《うち》。
    ×
浪《なみ》のひかりか、月の出か、
寝覚《ねざめ》を照《てら》す、窓の中。
遠いところで鴨《かも》が啼《な》き、
心に透《とほ》る、海の秋。
宿は岬の松の岡《をか》。
    ×
十国《じつこく》峠、名を聞いて
高い所に来たと知る。
世《よ》離《はな》れたれば、人を見て
路《みち》を譲らぬ牛もある。
海に真赤《まつか》な日が落ちる。
    ×
すべての人を思ふより、
唯《た》だ一人《ひとり》には背《そむ》くなり。
いと寂《さび》しきも我が心、
いと楽しきも我が心。
すべての人を思ふより。
    ×
雲雀《ひばり》は揚がる、麦生《むぎふ》から。
わたしの歌は涙から。
空の雲雀《ひばり》もさびしかろ、
はてなく青いあの虚《うつ》ろ、
ともに已《や》まれぬ歌ながら。
    ×
鏡の間《ま》より出《い》づるとき、
今朝《けさ》の心ぞやはらかき。
鏡の間《ま》には塵《ちり》も無し、
あとに静かに映れかし、
鸚哥《インコ》の色の紅《べに》つばき。
    ×
そこにありしは唯《た》だ二日、
十和田の水が其《そ》の秋の
呼吸《いき》を猶《なほ》する、夢の中。
痩《や》せて此頃《このごろ》おもざしの
青ざめゆくも水ゆゑか。
    ×
つと休らへば素直なり、
藤《ふぢ》のもとなる低き椅子《いす》。
花を透《とほ》して日のひかり
うす紫の陰影《かげ》を着《き》す。
物みな今日《けふ》は身に与《くみ》す。
    ×
海の颶風《あらし》は遠慮無し、
船を吹くこと矢の如《ごと》し。
わたしの船の上がるとき、
かなたの船は横を向き、
つひに別れて西ひがし。
    ×
笛にして吹く麦の茎、
よくなる時は裂ける時。
恋の脆《もろ》さも麦の笛、
思ひつめたる心ゆゑ
よく鳴る時は裂ける時。
    ×
地獄の底の火に触れた、
薔薇《ばら》に埋《うづ》まる床《とこ》に寝た、
金《きん》の獅子《しし》にも乗り馴《な》れた、
天《てん》に中《ちう》する日も飽《あ》いた、
己《おの》が歌にも聞き恍《ほ》れた。
    ×
春風《はるかぜ》の把《と》る彩《あや》の筆
すべての物の上を撫《な》で、
光と色に尽《つく》す派手。
ことに優れてめでたきは
牡丹《ぼたん》の花と人の袖《そで》。
    ×
涙に濡《ぬ》れて火が燃えぬ。
今日《けふ》の言葉に気息《いき》がせぬ、
絵筆を把《と》れど色が出ぬ、
わたしの窓に鳥が来《こ》ぬ、
空には白い月が死ぬ。
    ×
あの白鳥《はくてう》も近く来る、
すべての花も目を見はる、
青い柳も手を伸べる。
君を迎へて春の園《その》
路《みち》の砂にも歌がある。
    ×
大空《おほそら》ならば指ささん、
立つ波ならば濡《ぬ》れてみん、
咲く花ならば手に摘まん。
心ばかりは形無《かたちな》し、
偽りとても如何《いか》にせん。
    ×
人わが門《かど》を乗りて行《ゆ》く、
やがて消え去る、森の奥。
今日《けふ》も南の風が吹く。
馬に乗る身は厭《いと》はぬか、
野を白くする砂の中。
    ×
鳥の心を君知るや、
巣は雨ふりて冷ゆるとも
雛《ひな》を素直に育てばや、
育てし雛《ひな》を吹く風も
塵《ちり》も無き日に放たばや。
    ×
牡丹《ぼたん》のうへに牡丹《ぼたん》ちり、
真赤《まつか》に燃えて重なれば、
いよいよ青し、庭の芝。
ああ散ることも光なり、
かくの如《ごと》くに派手なれば。[#「なれば。」は底本では「なれば、」]
    ×
閨《ねや》にて聞けば[#「聞けば」は底本では「聞けは」]朝の雨
半《なかば》は現実《うつゝ》、なかば夢。
やはらかに降る、花に降る、
わが髪に降る、草に降る、
うす桃色の糸の雨。
    ×
赤い椿《つばき》の散る軒《のき》に
埃《ほこり》のつもる臼《うす》と杵《きね》、
莚《むしろ》に干すは何《なん》の種。
少し離れて垣《かき》越《こ》しに
帆柱ばかり見える船。
    ×
三《み》たび曲つて上《のぼ》る路《みち》、
曲り目ごとに木立《こだち》より
青い入江《いりえ》の見える路《みち》、
椿《つばき》に歌ふ山の鳥
花踏みちらす苔《こけ》の路《みち》。

[#ここで段組終わり]
[#改丁]
[#ページの左右中央から]

   夢と現実
       (雑詩四十章)

[#改丁]
[#ここから2段組]

    明日

明日《あす》よ、明日《あす》よ、
そなたはわたしの前にあつて
まだ踏まぬ未来の
不可思議の路《みち》である。
どんなに苦しい日にも、わたしは
そなたに憬《こが》れて励《はげ》み、
どんなに楽《たのし》い日にも、わたしは
そなたを望んで踊りあがる。

明日《あす》よ、明日《あす》よ、
死と飢《うゑ》とに追はれて歩くわたしは
たびたびそなたに失望する。
そなたがやがて平凡な今日《けふ》に変り、
灰色をした昨日《きのふ》になつてゆくのを
いつも、いつもわたしは恨んで居る。
そなたこそ人を釣る好《よ》い香《にほひ》の餌《ゑさ》だ、
光に似た煙だと咀《のろ》ふことさへある。

けれど、わたしはそなたを頼んで、
祭の前夜の子供のやうに
「明日《あす》よ、明日《あす》よ」と歌ふ。
わたしの前には
まだまだ新しい無限の明日《あす》がある。
よしや、そなたが涙を、悔《くい》を、愛を、
名を、歓楽を、何《なに》を持つて来よう[#「よう」は底本では「やう」]とも、
そなたこそ今日《けふ》のわたしを引く力である。


    肖像

わが敬《けい》する画家よ、
願《ねがは》くは、我がために、
一枚の像を描《ゑが》きたまへ。

バツクには唯《た》だ深夜の空、
無智と死と疑惑との色なる黒に、
深き悲痛の脂色《やにいろ》を交ぜたまへ。

髪みだせる裸の女、
そは青ざめし肉塊とのみや見えん。
じつと身ゆるぎもせず坐《すわ》りて、
尽きぬ涙を手に受けつつ傾く。
前なる目に見えぬ無底《むてい》の淵《ふち》を覗《のぞ》く姿勢《かたち》。

目は疲れてあり、
泣く前に、余りに現実を見たるため。
口は堅く緊《しま》りぬ、
未《いま》だ一《ひと》たびも言はず歌はざる其《そ》れの如《ごと》く。

わが敬《けい》する画家よ、
若《も》し此《この》像の女に、
明日《あす》と云《い》ふ日のありと知らば、
トワルの何《いづ》れかに黄金《きん》の目の光る一羽《いちは》の梟《ふくろふ》を添へ給《たま》へ。
されど、そは君が意に任せん、わが知らぬことなり。

さて画家よ、彩料《さいれう》には
わが好むパステルを用ひたまへ、
剥落《はくらく》と褪色《たいしよく》とは
恐らく此《この》像の女の運命なるべければ。


    読後

晶子、ヅアラツストラを一日一夜《いちにちいちや》に読み終り、
その暁《あかつき》、ほつれし髪を掻《かき》上げて呟《つぶや》きぬ、
「辞《ことば》の過ぎたるかな」と。
しかも、晶子の動悸《どうき》は羅《うすもの》を透《とほ》して慄《ふる》へ、
その全身の汗は産《さん》の夜《よ》の如《ごと》くなりき。

さて十日《とをか》経《へ》たり。
晶子は青ざめて胃弱の人の如《ごと》く、
この十日《とをか》、良人《をつと》と多く語らず、我子等《わがこら》を抱《いだ》かず。
晶子の幻《まぼろし》に見るは、ヅアラツストラの
黒き巨像の上げたる右の手なり。


    紅い夢

茜《あかね》と云《い》ふ草の葉を搾《しぼ》れば
臙脂《べに》はいつでも採《と》れるとばかり
わたしは今日《けふ》まで思つてゐた。
鉱物からも、虫からも
立派な臙脂《べに》は採《と》れるのに。
そんな事はどうでもよい、
わたしは大事の大事を忘れてた、
夢からも、
わたしのよく見る夢からも、
こんなに真赤《まつか》な臙脂《べに》の採《と》れるのを。


    アウギユスト

アウギユスト、アウギユスト、
わたしの五歳《いつつ》になるアウギユスト、
おまへこそは「真実」の典型。
おまへが両手を拡げて
自然にする身振の一つでも、
わたしは、どうして、
わたしの言葉に訳すことが出来よう。
わたしは唯《た》だ
ほれぼれと其《そ》れを眺めるだけですよ、
喜んで目を見張るだけですよ。
アウギユスト、アウギユスト、
母の粗末な芸術なんかが
ああ、何《なん》にならう。
私はおまへに由《よ》つて知ることが出来た。
真実の彫刻を、
真実の歌を、
真実の音楽を、
そして真実の愛を。
おまへは一瞬ごとに
神変《しんぺん》不思議を示し、
玲瓏《れいろう》円転として踊り廻る。


    産室《うぶや》の夜明《よあけ》

硝子《ガラス》の外《そと》のあけぼのは
青白《あおしろ》き繭《まゆ》のここち……
今|一《ひと》すぢ仄《ほの》かに
音せぬ枝珊瑚《えださんご》の光を引きて、
わが産室《うぶや》の壁を匍《は》ふものあり。
と見れば、嬉《うれ》し、
初冬《はつふゆ》のかよわなる
日の蝶《てふ》の出《い》づるなり。[#「なり。」は底本では「なり、」]

ここに在るは、
八《や》たび死より逃れて還《かへ》れる女――
青ざめし女われと、
生れて五日《いつか》目なる
我が藪椿《やぶつばき》の堅き蕾《つぼみ》なす娘エレンヌと
一瓶《いちびん》の薔薇《ばら》と、
さて初恋の如《ごと》く含羞《はにか》める
うす桃色の日の蝶《てふ》と……
静かに清清《すがすが》しき曙《あけぼの》かな。
尊《たふと》くなつかしき日よ、われは今、
戦ひに傷つきたる者の如《ごと》く
疲れて低く横たはりぬ。
されど、わが新しき感激は
拝日《はいにち》教徒の信の如《ごと》し、
わがさしのぶる諸手《もろで》を受けよ
前へ 次へ
全25ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング