……と云《い》ふ音がまだ耳にある。


    小猫

小猫、小猫、かはいい小猫、
坐《すわ》れば小《ちさ》く、まんまろく、
歩けばほつそりと、
美《うつ》くしい、真《ま》つ白な小猫、
生れて二月《ふたつき》たたぬ間《ま》に
孤蝶《こてふ》様のお宅から
わたしのうちへ来た小猫。

子供達が皆寝て、夜《よ》が更けた。
一人《ひとり》わたしが蚊に食はれ
書斎で黙つて物を書けば、
小猫よ、おまへは寂《さび》しいか、
わたしの後ろに身を擦り寄せて
小娘のやうな声で啼《な》く。

こんな時、
先《さき》の主人《あるじ》はお優しく
そつとおまへを膝《ひざ》に載せ
どんなにお撫《な》でになつたことであろ。
けれど、小猫よ、
わたしはおまへを抱く間《ま》がない、
わたしは今夜
もうあと十枚書かねばならんのよ。

夜《よ》がますます更けて、
午前二時の上野の鐘が幽《かす》かに鳴る。
そして、何《なに》にじやれるのか、
小猫の首の鈴が
次の間《ま》で鳴つてゐる。


    記事一章

今は
(私は正しく書いて置く、)
一千九百十六年一月十日の
午前二時|四十《しじふ》二分。
そして此時《このとき》から十七《じふしち》分前に、
一つの不意な事件が
私を前後不覚に
くつくつと笑はせた。

宵の八時に
子供達を皆寝かせてから、
良人《をつと》と私はいつもの通り、
全《まつた》く黙つて書斎に居た。
一人《ひとり》は書物に見入つて
折折《をりをり》そつと辞書を引き、
一人《ひとり》は締切《しめきり》に遅れた
雑誌の原稿を書いて居た。
毎夜《まいよ》の習はし……
飯田町《いひだまち》を発した大貨物列車が
崖上《がけうへ》の中古《ちゆうぶる》な借家《しやくや》を
船のやうに揺盪《ゆす》つて通つた。
この器械的地震に対して
私達の反応は鈍い、
唯《た》だぼんやり
もう午前二時になつたと感じた外《ほか》は。

それから間《ま》も無くである。
庭に向いて机を据ゑた私と
雨戸を中に一尺の距離もない
直《す》ぐ鼻の先の外《そと》で、
突然、一つの嚔《くしやみ》が破裂した、
「泥坊の嚔《くしやみ》だ、」
刹那《せつな》にかう直感した私は
思はずくつくつと笑つた。

「何《な》んだね」と良人《をつと》が振《ふり》向いた時、
其《その》不可抗力の声に気まり悪く、
あわてて口を抑《おさ》へて、
そつと垣の向うへ逃げた者がある。
「泥坊が嚔《くしやみ》をしたんですわ、」
大洋の底のやうな六時間の沈黙が破れて、
二人《ふたり》の緊張が笑ひに融《と》けた。
こんなに滑稽《こつけい》な偶然と見える必然が世界にある。


    砂

川原《かはら》[#ルビの「かはら」は底本では「かははら」]の底の底の価《あたひ》なき
砂の身なれば人|採《と》らず、
風の吹く日は塵《ちり》となり
雨の降る日は泥となり、
人、牛、馬の踏むままに
圧《お》しひしがれて世にありぬ。
稀《まれ》に川原《かはら》のそこ、かしこ、
れんげ、たんぽぽ、月見草《つきみさう》、
ひるがほ、野菊、白百合《しろゆり》の
むらむらと咲く日もあれど、
流れて寄れる種なれば
やがて流れて跡も無し。


    怖ろしい兄弟

ここの家《いへ》の名前人《なまへにん》は
総領の甚六がなつてゐる。
欲ばかり勝《か》つて
思ひやりの欠けてゐる兄だ。
不意に、隣の家《うち》へ押しかけて、
庇《かば》ひ手のない老人《としより》の
半身不随の亭主に、
「きさまの持つてゐる
目ぼしい地所や家蔵《いへくら》を寄越《よこ》せ。
おらは不断おめえに恩を掛けてゐる。
おらが居ねえもんなら、
おめえの財産なんか
遠《とほ》の昔に
近所から分《わ》け取《ど》りにされて居たんだ。
その恩返《おんかへ》しをしろ」と云《い》つた。
なんぼよいよいでも、
隣の爺《おやぢ》には、性根《しやうね》がある。
あるだけの智慧をしぼつて
甚六の言ひ掛《がか》りを拒《こば》んだ。
押問答が長引いて、
二人《ふたり》の声が段段と荒くなつた。
文句に詰つた甚六が
得意な最後の手を出して、
拳《こぶし》を振上げ相《さう》になつた時、
大勢の甚六の兄弟が
がやがやと寄つて来た。
「腰が弱《よ》ゑいなあ、兄貴、」
「脅《おど》しが足りねえなあ、兄貴、」
「もつと相手をいぢめねえ、」
「なぜ、いきなり刄物《はもの》を突き附《つ》けねえんだ、」
「文句なんか要《い》らねえ、腕づくだ、腕づくだ、」
こんなことを口口《くちぐち》に云《い》つて、
兄を罵《のゝし》る兄弟ばかりである、
兄を励ます兄弟ばかりである。
ほんとに兄を思ふ心から、
なぜ無法な言ひ掛《がか》りなんかしたんだと
兄の最初の発言を
咎《とが》める兄弟とては一人《ひとり》も居なかつた。
おお、怖《おそ》ろしい此処《ここ》の家《いへ》の
名前人《なまへにん》と家族。


    駄獣《だじう》の群《むれ》

ああ、此《この》国の
怖《おそ》るべく且《か》つ醜き
議会の心理を知らずして
衆議院の建物を見上ぐる勿《なか》れ。
禍《わざはひ》なるかな、
此処《ここ》に入《はひ》る者は悉《ことごと》く変性《へんせい》す。
たとへば悪貨の多き国に入《い》れば
大英国の金貨も
七日《なぬか》にて鑢《やすり》に削り取られ
其《その》正しき目方を減ずる如《ごと》く、
一たび此《この》門を跨《また》げば
良心と、徳と、
理性との平衝を失はずして
人は此処《ここ》に在り難《がた》し。
見よ、此処《ここ》は最も無智なる、
最も敗徳《はいとく》[#「敗徳」はママ]なる、
はた最も卑劣無作法なる
野人《やじん》本位を以《もつ》て
人の価値を
最も粗悪に平均する処《ところ》なり。
此処《ここ》に在る者は
民衆を代表せずして
私党を樹《た》て、
人類の愛を思はずして
動物的利己を計り、
公論の代りに
私語と怒号と罵声《ばせい》とを交換す。
此処《ここ》にして彼等の勝つは
固《もと》より正義にも、聡明《そうめい》にも、
大胆にも、雄弁にもあらず、
唯《た》だ彼等|互《たがひ》に
阿附《あふ》し、模倣し、
妥協し、屈従して、
政権と黄金《わうごん》とを荷《にな》ふ
多数の駄獣《だじう》と
みづから変性《へんせい》するにあり。
彼等を選挙したるは誰《たれ》か、
彼等を寛容しつつあるは誰《たれ》か。
此《この》国の憲法は
彼等を逐《お》ふ力無し、
まして選挙権なき
われわれ大多数の
貧しき平民の力にては……
かくしつつ、年毎《としごと》に、
われわれの正義と愛、
われわれの血と汗、
われわれの自由と幸福は
最も臭《くさ》く醜き
彼等|駄獣《だじう》の群《むれ》に
寝藁《ねわら》の如《ごと》く踏みにじらる……


    或年の夏

米の値《ね》の例《れい》なくも昂《あが》りければ、
わが貧しき十人《じふにん》の家族は麦を食らふ。
わが子らは麦を嫌ひて
「お米の御飯を」と叫べり。
麦を粟《あは》に、また小豆《あづき》に改むれど、
猶《なほ》わが子らは「お米の御飯を」と叫べり。
わが子らを何《なん》と叱《しか》らん、
わかき母も心には米を好めば。

「部下の遺族をして
窮する者無からしめ給《たま》はんことを。
わが念頭に掛かるもの是《こ》れのみ」と、
佐久間大尉の遺書を思ひて、
今更にこころ咽《むせ》ばるる。


    三等局集配人(押韻)

わたしは貧しき生れ、
小学を出て、今年十八。
田舎の局に雇はれ、
一日に五《ご》ヶ村《そん》を受持ち、
集配をして身は疲れ、

暮れて帰れば、母と子と
さびしい膳《ぜん》のさし向ひ、
蜆《しゞみ》の汁で、そそくさと
済ませば、何《なん》の話も無い。
たのしみは湯へ行《ゆ》くこと。

湯で聞けば、百姓の兄さ、
皆読んで来て善《よ》くする、
大衆文学の噂《うはさ》。
わたしは唯《た》だ知つてゐる、
その円本《ゑんほん》を配る重さ。

湯が両方の足に沁《し》む。
垢《あか》と土とで濁《にご》された
底でしばらく其《そ》れを揉《も》む。
ああ此《この》足が明日《あす》もまた
桑の間《あひだ》の路《みち》を踏む。

この月も二十日《はつか》になる。
すこしの楽《らく》も無い、
もう大きな雑誌が来る。
やりきれない、やりきれない、
休めば日給が引かれる。

小説家がうらやましい、
菊池|寛《くわん》も人なれ、
こんな稼業は知るまい。
わたしは人の端くれ、
一日八十銭の集配。


    壁

バビロン人の築きたる
雲間《くもま》の塔は笑ふべし、
それにまさりて呪《のろ》はしき
巨大の塔は此処《ここ》にあり。

千億の石を積み上げて、
横は世界を巻きて展《の》び、
劔《つるぎ》を植ゑし頂《いたゞき》は
空わたる日を遮《さへぎ》りぬ。

何《なに》する壁ぞ、その内に
今日《けふ》を劃《しき》りて、人のため、
ひろびろしたる明日《あす》の日の
目路《めぢ》に入《い》るをば防ぎたり。

壁の下《もと》には万年の
小暗《をぐら》き蔭《かげ》の重《かさ》なれば、
病むが如《ごと》くに青ざめて
人は力を失ひぬ。

曇りたる目の見難《みがた》さに
行《ゆ》く方《かた》知らず泣くもあり、
羊の如《ごと》く押し合ひて
血を流しつつ死ぬもあり。

ああ人皆よ、何《なに》ゆゑに
古代の壁を出《い》でざるや、
永久《とは》の苦痛に泣きながら
猶《なほ》その壁を頼めるや。

をりをり強き人ありて
怒《いか》りて鉄の槌《つち》を振り、
つれなき壁の一隅《ひとすみ》を
崩さんとして穿《うが》てども、

衆を協《あは》せし[#「協せし」は底本では「恊せし」]凡夫《ぼんぷ》等は
彼《か》れを捕《とら》へて撲《う》ち殺し、
穿《うが》ちし壁をさかしらに
太き石もて繕《つく》ろひぬ。

さは云《い》へ壁を築きしは
もとより世世《よよ》の凡夫《ぼんぶ》なり、
稀《まれ》に出《い》で来《く》る天才の
至上の智慧に及ばんや。

時なり、今ぞ飛行機と
大重砲《だいぢゆうはう》の世は来《きた》る。
見よ、真先《まつさき》に、日の方《かた》へ、
「生きよ」と叫び飛ぶ群《むれ》を。


    不思議の街

遠い遠い処《ところ》へ来て、
わたしは今へんな街を見てゐる。
へんな街だ、兵隊が居ない、
戦争《いくさ》をしようにも隣の国がない。
大学教授が消防夫を兼ねてゐる。
医者が薬価を取らず、
あべこべに、病気に応じて、
保養中の入費《にふひ》にと
国立銀行の小切手を呉《く》れる。
悪事を探訪する新聞記者が居ない、
てんで悪事が無いからなんだ。
大臣は居ても官省《くわんしやう》が無い、
大臣は畑《はたけ》へ出てゐる、
工場《こうぢやう》へ勤めてゐる、
牧場《ぼくぢやう》に働いてゐる、
小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。
中には掃除車の御者《ぎよしや》をしてゐる者もある。
女は皆余計なおめかしをしない、
瀟洒《せうしや》とした清い美を保つて、
おしやべりをしない、
愚痴と生意気を云《い》はない、
そして男と同じ職を執《と》つてゐる。
特に裁判官は女の名誉職である。
勿論《もちろん》裁判所は民事も刑事も無い、
専《もつぱ》ら賞勲の公平を司《つかさど》つて、
弁護士には臨時に批評家がなる。
併《しか》し長長《ながなが》と無用な弁を振《ふる》ひはしない、
大抵は黙つてゐる、
稀《まれ》に口を出しても簡潔である。
それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、[#「だからだ、」は底本では「だからだ」]
同時に裁決する女が聡明《そうめい》だからだ。
また此《この》街には高利貸がない、
寺がない、教会がない、
探偵がない、
十種以上の雑誌がない、
書生芝居がない、
そのくせ、内閣会議も、
結婚披露も、葬式も、
文学会も、絵の会も、
教育会も、国会も、
音楽会も、踊《をどり》も、
勿論《もちろん》名優の芝居も、
幾つかある大国立劇場で催してゐる。
全《まつた》くへんな街だ、
わたしの自慢の東京と
大《おほ》ちがひの街だ。
遠い遠い処《ところ》へ来て
わたしは今へんな街を見てゐる。


    女は
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