《カントン》蜜柑《みかん》をむいたれば、
藍《あゐ》と鬱金《うこん》に染まる爪《つめ》。
江戸の昔の廣重《ひろしげ》の
名所づくしの絵を刷つた
版師《はんし》の指は斯《か》うもあらうか。
藍《あゐ》と鬱金《うこん》に染まる爪《つめ》。


    或国

堅苦しく、うはべの律義《りちぎ》のみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り気《ぎ》の国、
支那《しな》人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加《アメリカ》の富なくて、亜米利加《アメリカ》化する国、
疑惑と戦慄《せんりつ》とを感ぜざる国、
男みな背を屈《かゞ》めて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら安《やす》く、万万歳《ばんばんざい》の国。


    朝

髪かき上ぐる手ざはりが
何《なに》やら温泉|場《ば》にゐるやうな
軽い気分にわたしをする。
この間《ま》に手紙を書きませう、
朝の書斎は凍《こほ》れども、
「君を思ふ」と巴里《パリイ》宛《あて》に。


    或家のサロン

女は在る限り
粗《あら》けづりの明治の女ばかり。
唯《た》だ一人《ひとり》あの若い詩人がゐて
今日《けふ》の会は引き立つ。
永井|荷風《かふう》の書くやうな
おちついた、抒情詩的な物言ひ、
また歌麿《うたまろ》の版画の
「上の息子」の身のこなし。


    片時

わが小《ち》さい娘の髪を撫《な》でるとき、
なにか知ら、生れ故郷が懐《おも》はれる。
母がこと、亡き姉のこと、伯母がこと、
あれや、其《そ》れ、とりとめもない事ながら、
片時《かたとき》は黄金《こがね》の雨が降りかかる。


    春昼《しゆんちう》

三月《さんぐわつ》の昼のひかり、
わが書斎に匍《は》ふ藤《ふぢ》むらさき。
そのなかに光《ひかる》の顔の白、
七瀬《なゝせ》の帯の赤、
机に掛けた布の脂色《やにいろ》、
みな生生《いきいき》と温かに……
されど唯《た》だ壺《つぼ》の彼岸桜《ひがんさくら》と
わが姿とのみは淡く寒し。
君の久しく留守なれば
静物の如《ごと》く我も在るらん。


    雪

障子あくれば薄明り、
しづかに暮れるたそがれに、
をりをりまじる薄雪は
錫箔《すゞはく》よりもたよりなし。
ほつれた髪にとりすがり、
わたしの顔をさし覗《のぞ》く
雪のこころの寂《さび》しさよ。
しづくとなつて融《と》けてゆく
雪のこころもさうであらう、
まして
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