桃の花

花屋の温室《むろ》に、すくすくと
きさくな枝の桃が咲く。
覗《のぞ》くことをば怠るな、
人の心も温室《むろ》なれば。


    杯《さかづき》

なみなみ注《つ》げる杯《さかづき》を
眺めて眸《まみ》の湿《うる》むとは、
如何《いか》に嬉《うれ》しき心ぞや。
いざ干したまへ、猶《なほ》注《つ》がん、
後《のち》なる酒は淡《うす》くとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ注《つ》ぐ酒なれば。


    日和山《ひよりやま》

鳥羽の山より海見れば、
清き涙が頬《ほ》を伝ふ。
人この故を問はであれ、
口に云《い》ふとも尽きじかし。
知らんとならば共に見よ、
臥《ふ》せる美神《※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニユス》の肌のごと
すべて微笑《ほゝゑ》む入江をば。
志摩の国こそ希臘《ギリシヤ》なれ。


    春草《しゆんさう》

弥生《やよひ》はじめの糸雨《いとさめ》に
岡《をか》の草こそ青むなれ。
雪に跳《をど》りし若駒《わかごま》の
ひづめのあとの窪《くぼ》みをも
円《まろ》く埋《うづ》めて青むなれ。


    二月の雨

あれ、琵琶《びは》のおと、俄《には》かにも
初心《うぶ》な涙の琵琶《びは》のおと。
高い軒《のき》から、明方《あけがた》の
夢に流れる琵琶《びは》のおと。

二月の雨のしほらしや、
咲かぬ花をば恨めども、
ブリキの樋《とひ》に身を隠し、
それと云《い》はずに琵琶《びは》を弾く。


    秋の柳

夜更《よふ》けた辻《つじ》の薄墨の
痩《や》せた柳よ、糸やなぎ。
七日《なぬか》の月が細細《ほそほそ》と
高い屋根から覗《のぞ》けども、
なんぼ柳は寂《さび》しかろ。
物思ふ身も独りぼち。


    冬のたそがれ

落葉《おちば》した木はY《ワイ》の字を
墨くろぐろと空に書き、
思ひ切つたる明星《みやうじやう》は
黄金《きん》の句点を一つ打つ。
薄く削つた白金《プラチナ》の
神経質の粉雪よ、
瘧《おこり》を慄《ふる》ふ電線に
ちくちく触《さは》る粉雪よ。


    惜しき頸輪

我もやうやく街に立ち、
物|乞《こ》ふために歌ふなり。
ああ、我歌《わがうた》を誰《た》れ知らん、
惜しき頸輪《くびわ》の緒《を》を解きて
日毎《ひごと》に散らす珠《たま》ぞとは。


    思《おもひ》は長し

思《おもひ》は長し、尽き難
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