小田原より東京へ
むし暑き日の二時間、
我れは二人《ふたり》の愛国者と乗合せぬ、
二人は論じ且つ論ず。

その対象となる固有名詞は
すべて大臣大将なれど、
その末に敬称を附せざるは
二人の自負のより高きが為めならん。

満員の列車、
避くべき席も無し。
我れは久しく斯かる英雄に遇はず、

されば謹みて猶聴きぬ。

日米のこと、日露のこと
政党弾圧のこと、
首相を要せず、外務大臣を要せず、
天下は二人ありて決するが如し。

大船駅停車の二分に
我れは今日の夕刊を買ひぬ。
新聞には「昭和九年」とあれど、
我れの前の二人は明治型の国士なり。

新聞を開きて、我れは現代に返る。
一面の隅に如是閑先生の文章あり。
偶然にも取上げたる新聞は
英雄たちと我れの間に幕となりぬ。


  防空演習の夜

今日《けふ》は九月一日、
誰れか震災を回顧する遑《いとま》あらん。
敵機の襲来を仮想して、
全市の人、防空に力《つと》む。

午後六時、
サイレンは鳴りわたる。
子らよ、灯を皆消せるか、
戸をすべて鎖しつるか。

良人と、我れと、
泊り合せたる是山《ぜざん》ぬしと、
暗き廊を折れ曲りて
采花荘《さいくわさう》の書斎に入る。

手探りに電灯をひねれば、
被《おほ》ひたる黒き布長く垂れて、
下二尺
わづかにも円《まろ》く光りぬ。

雨、雨、俄かなる雨、
風さへも荒く添へり。
サイレンに交りて
砲声遠く起る。

防護団の若き人人、
今、敏活の動作いかなるべき。
いざ、斯かる夜に歌詠まん、
屋外の任務に就かぬ我等は。


この即興の言葉に、
是山ぬし先づ微笑み、
良人はうなづきて
煙草《たばこ》に火を附けぬ。

黙して紙に向へば、
サイレンと、暴雨と、砲声と、
是れ、我等を励ますなり、
我等の気は揚がる。

但だ、筆を執る姿は
軒昂たること難し、
俯向ける三人の背に
全市の闇を負へり。

少時《しばし》して、突然、
地震なり、
板戸、硝子戸、鳴りとどろき、
家三たび荒く揺れぬ。

子の一人馳せ来て告ぐ、
横浜なる防空本部のラヂオ
今云ひぬ、
「この松屋の屋上も揺れつつあり」と。

人は敵機の空襲に備へて、
震災記念日を忘れたれど、
大地は忘れずして
我等を驚かしつるならん。

砲声は更に加はる、
敵機、市の空に入れるか。
驚異と惶惑の夜、
我等は猶筆を執る。


  九段坂の涼夜

九段の坂の上に来て、
大東京の中央に
高く立つこそ涼しけれ。

まして今宵の大空は
秋にも通ふ色をして、
濃いお納戸《なんど》の繻子《しゆす》を張り、

しとどに置ける露のごと、
星みな白くまたたくは、
空にも風のそよぐらん。

見下ろす街は近きより
遠きへかけて奥のある
墨と浅葱《あさぎ》を盛り重ね、

飾りとしたる灯の色は
濡れたる金《きん》に交へたり、
紅き瑪瑙とエメラルド。

ここにて聴けば、輪の軋り、
汽笛の叫び、それもまた
喜び狂ふ楽となり、

今宵の街を満たすもの、
行き交ふ袖も、私語《ささめき》も、
すべて祭の姿なり。

かかる心地に、我れ曾て
モンマルトルの高きより
宵の巴里《パリイ》を眺めけり。

おなじ心地に、今宵また
明るき御代の我が都
大東京を観ることよ。

いとま無き身に唯だ暫し、
九段の坂の上に来て
高く立つこそ涼しけれ。


  北信の歌

    (山崎矢太郎氏の詩集に序する擬古一章)
わが恋ふる北の信濃は、
雲分けてむら山聳え、
沙わしり行く川長し。
あけがたの浅間のふもと、
たそがれの碓氷の峠、
幾たびも我れを立たしめ、
思ふこと尽くべくも無し。
子らと来てまたも遊ばん、
夫子《せこ》と居て常に歌はん、
飽くことを知らぬ心に
かくさへも願ふなりけり。
ましてまた松川の奥、
紅葉する渓の深さよ。
小舟《をぶね》をば野尻に浮べ、
いで湯をば野沢に浴びて、
霧を愛で、月をよろこび、
日を経ればいよいよ楽し。
往きかへり、千曲《ちくま》の川の
橋こえて打見わたせば、
とりどりに五つの峰の
晴わたる雲を帯ぶるも、
云ひ古りし常の言葉に
讃ふべきすべの無きかな。
旅の身はあはれと歎き、
唯だ暫し見てこそ過ぐれ。
羨まし、この国の人
常に見てこころ足るらん。
言《こと》を寄す、その人人よ、
今の世の都に染まぬ
新しく清き歌あれ、
この山と水に合せて
美しく高き歌あれ、
なつかしく光りたる国
北の信濃に。


  小鳥の巣(押韻小曲)

蔭にわたしを立てながら、
優しく物を云ひ掛ける。
もう落葉した路の楢。
楢とわたしは目で語る、
風が聴かうと覗くから。
   ×
杉にからんだ蔓を攀ぢ、
秋の夕日が食べてゐる、
山の葡萄の朱の紅葉《もみぢ》。
ちぎれて低く駆けて来る
雲は二三の野の羊。
   ×
わたしを何処へ捨てたのか、
とんと思ひがまとまらぬ。

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