形な白い石の家が立ち、
遥かな前方には、
一すぢの廻りくねつた川が
茂つた木立ちの中を縫つてゐる。

夜見る木立は
草のやうに低く黒く集団《かたま》り、
中には、ほのかに、
二本、三本、
針金のやうな細い幹が
傾いて立つてゐる。

月の光の当たつてゐる部分は、
川も、木立も、
銀の鍍金《めつき》をして輝き、
陰影はすべて
鉄のやうに重い。

世界は静かだ。
青繻子の感触を持つ空には、
星が宝石と金銀の飾りを
派手にぎらつかせ、
硝子《がらす》製のやうな
淡い一輪の月を
病人の顔でも覗き込むやうに
とり囲んでゐる。


川の水が
遥かな割に、
ちよろ、ちよろと
淋しい音を立てゝ流れる。

わたしは今、目を閉ぢると、
こんな景色が見える。
さうして、
その石の家の窓には
わたしが一人
じつと坐つてゐるやうである。
また、その遥かな水音も
私自身が泣いてゐるやうである。

また、その白い月が
わたしであつて、
高いところから、
傷ついた心で、
その空虚《うつろ》な石の家を
見下ろしてゐるやうでもある。
[#改ページ]

 大正十二年


  電車の中

生暖かい三月半の或夜《あるよ》、
東京駅の一つの乗場《プラツトホーム》は
人の群で黒くなつてゐる。
停電であるらしい、
久しく電車が来ない。
乗客は刻一刻に殖えるばかり、
皆、家庭へ下宿へと
急ぐ人々だ。
誰れも自制してはゐるが、
心のなかでは呟いてゐる、
或はいらいらとしてゐる、
唸り出したい気分になつてゐる者もある。
じつとしては居られないで、
線路を覗く人、
有楽町の方を眺める人、
頻りに煙草《たばこ》を強く吹かす人、
人込みを縫つて右往左往する人もある。
誰れの心もじれつたさに
何《なん》となく一寸険悪になる。
其中に女の私もゐる。

凡《おほよ》そ廿分の後《のち》に、
やつと一台の電車が来た。
人々は押合ひながら
乗ることが出来た。
ああ救はれた、
電車は動き出した。

けれど、私の車の中には
鳥打帽をかぶつた、
汚れたビロオド服の大の男が
五人分の席を占めて、
ふんぞり反つて寝てゐる。
この満員の中で
その労働者は傍若無人の態《てい》である。
酔つてゐるのか、
恐らくさう[#「さう」に傍点]では無からう。
乗客は其男の前に密集しながら、
誰も喚び起さうとする者はない。
男達は皆其男と大差のない
プロレタリアでありながら、
仕へてゐる主人の真似をして
ブルジヨア風の服装《みなり》をしてゐるために、
其男に気兼し、
其男を怒らせることを恐れてゐる。
電車は走つて行く。
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。
乗客は窮屈な中に
忍耐の修行をして立ち、
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。
その中に女の私もゐる。

一人で五人分の席を押領する……
人人がこんなに込合つて
息も出来ないほど困つてゐる中で……
あゝ一体、人間相互の生活は
かう云ふ風でよいものか知ら……
私は眉を顰めながら、
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ
我々プロレタリアの階級に
よい指導者の要ることを思つてみた。

併しまた、私は思つた、
なんだ、一人の、酔つぱらつた、
疲れた、行儀のない、
心の荒んだ、
汚れたビロオド服の労働者が
五人分の席に寝そべることなんかは。
昔も、今も、
少数の、狡猾な、遊惰な、
暴力と財力とを持つ人面獣が、
おのおの万人分の席を占めて、
どれ位われわれを飢させ、
病ませ、苦めてゐるか知れない。
電車の中の五人分の席は
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ。

かう思つて更に見ると、
大勢の乗客は皆、
自分達と同じ弱者の仲間の
一人の兄弟の不作法を、
反抗的な不作法を、
その傍に立塞がつて
庇護《かば》つてゐるやうに見える。
その中に女の私もゐる。


  母と児

書き捨てた反古を捻つて、
幾つも幾つも作る、
紙《こ》よりの犬。
「母あさんは今日、
玩具《おもちや》を買ひに出る暇が無いの、
是で我慢をなさいな。」

ひよろ、ひよろとした小犬が
幾つも机の上に並ぶのを見て、
四歳の児の目は円くなる。
「母あさん、此犬を啼かして頂戴、
啼かなけりや、母あさんは
犬を作るのが下手ですよ。」


  郊外

路は花園に入り、
カンナの黄な花が
両側に立つてゐる。
藁屋根の、矮い、
煤けた一軒の百姓家が
私を迎へる。
その入口の前に
石で囲んだ古井戸。
一人の若い男が鍬を洗つてゐる。
私のパラソルを見て、
五六羽の鶏が
向日葵の蔭へ馳けて[#「馳けて」はママ]行く。
黄楊の木の生垣の向うで
田へ落ちる水が、
ちよろ、ちよろと鳴つてゐる。
唯だ、あれが見えねば好からう、
青いペンキ塗の
活動写真撮影場。


  〔無題〕

六月の太陽のもとで、
高架線から見る東京。
帆のやうに、幕のやうに、
舞台装置の背景布のや
前へ 次へ
全29ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング