は来ぬか、
風が木《こ》の葉を剥ぐやうに
裸に帰る日は来ぬか。


  〔無題〕

このアカシヤの木《こ》のもとを
わが今日踏みて思ふこと
甘き怖えに似たるかな。
かかる木蔭にそのむかし、
逢はで止まれぬ初恋の
人を待ちたる思ひ出か、
はた、此処に来て、はるばると
見渡す池の秋の水
濃き紫の身に沁むか。


  〔無題〕

夜《よる》は美くし、安し、
人を脅かす太陽は隠れて、
星ある空は親しげに垂れ下り、
地は紫の気に満つ。

神秘と薄明の中《うち》に我等を据ゑて、
微風《そよかぜ》のもと、
夜は花の香《か》に濡れたる
その髪を振り乱す。

夜は美くし、安し、
今こそ小き我等も
一つの恋と一つの歌をもて
無限の世界に融け入るなれ。


  〔無題〕

大輪の向日葵《ひまはり》を斫らんとして、
ぢつと見れば、
太陽の娘なる花の明るさ、
軽き眩暈《めまひ》に身はたじろぐ。
斫りし大輪の向日葵を採れば
花粉はこぼれて身に満つ、
おお、金色《こんじき》の火の屑……
君よ、我は焼かれんとするなり。


  〔無題〕

我は俄に筆を擱《お》きぬ、
我が書き行く文字の上に、
スフインクスの意地悪るき片頬《かたほ》の
ちらと覗く、それを見つれば。


  〔無題〕

吝《やぶさ》かなれば言ひ遣りぬ、
永久の糧を送れと。

わが思ひつる如くにも
かの人は返事せず。

さて、ひと日過ぎ、二日《ふたひ》過ぎ、
何故《なにゆゑ》か、我は淋しき。

われは今みづから思ふ、
まことに恋に飢ゑつと。


  〔無題〕

灰となれば淋しや、
薔薇を焼きしも、
榾《ほだ》を焼きしも、
みな一色《ひといろ》に薄白し。
されば、我は
薔薇に執せず、
榾に著せず、
唯だ求む、火となることを。


  〔無題〕

悒欝の日がつづく、
わが思ひは暗し。
わが肩を圧《お》すは
重き錯誤の時。
身は醒めながら
悪夢の中に痩せて行く。


  〔無題〕

月の出前の暗《やみ》にさへ
マニラ煙草《たばこ》の香《か》を嗅げば、
牡丹の花が前に咲き、
孔雀の鳥が舞ひ下《くだ》る。
まして、輪を描《か》く水色の
それの煙を眺むれば、
黄金《きん》のうすぎぬ軽々と
舞うて空ゆく身が見える。


  我家

崖の上にも街、
崖の下にも街、
尺蠖虫《しやくとりむし》の如く
その間を這ふ細き小路《こうぢ》は
坑道よりも薄暗し。

我家《わがいへ》は小路に沿ひて、
更に一段低き窪にあり。
門を覗きて斜めに
人も、我も
横穴の悒欝を思ふ。

門と玄関との間、
両側に立つ痩せし樫の幹は
土中より出でし骨の如くに黒み、
その灰色する疎らなる枝は
鉛の静脈を空に張れり。

我家は佝僂病者《くるびやうしや》なり、
その内部は暗く屈みて
常に太陽を見ず、
陰湿の空気壁に沁みて
菊の香《か》の如く苦《にが》し。

さもあらばあれ、我は愛す、
我家の傷ましく淋しきを。
精舎と行者との如く、
同じ忍辱の中に
人と家とは黙し合ふ。

さて、我家にも、
二階の障子に
朝の日の射す片時あり、
見給へこの稀なる
我家の桃色の笑顔を。


  永き別れ

発車前三分……
我は更に戦きて
汽車の窓に歩み寄る。
発車前三分……
中なる人も
湿《うる》みたる目に見下ろし、
痙攣《ひきつ》る如く手を伸べぬ。

いかで、我等に残るこの束の間、
猶吸はばや、君が心を、
君が※[#「執/れっか」、10巻−377−下−7]を、君が香《か》を。
発車前三分
はた、わが命のため、
捉へて我目に留めばや、
君が顔を、君が姿を。

狂ほしくなれる我は
君が手の上に
はげしき接吻《くちづけ》を押して、
思はず、きと噛みぬ。
おゝ、今、基督《クリスト》の其れの如く、
わが脈管を伝ひて拡がるは
君が聖なる血の一滴……

汽笛は空気を裂く。
時なり、汽車は動き、
二度と来らぬ旅人の
君は遠く去り行く……
さはれ匂はしき記憶よ、
証《あか》せかし、常に猶、
我が衷《うち》に君の在るを。
[#改ページ]

 大正八年


  朝晴雪

ひと夜《よ》明くれば時は春、
おお、めでたくも晴れやかに
天は紺青、地の上は
淡紫と薔薇色を
明るく混ぜた銀の雪、
強き弱きの差別なく
世の争ひを和らげて
まんまろと積む春の雪、
平等の雪、愛の雪。
此処へ東の地平から
黄金《こがね》の色に波打つは、
身を躍らして駈け上《のぼ》る
若い初日の額髪。


  朝晴雪

おお、此処に、
躍りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ……
時は朝、
地は雪の原。

急ぐ女の一むれ、
青白き雪の上を
真一文字に北へ向き、
風に逆ふ髪は
後ろに靡きて
大馬の鬣《たてがみ》の如く、
折からの日光を受けて
金色《こんじき》に染まりぬ。

高く前に張れる両手は
確かに掴まんとする
理想の憧れに慄へて
前へ 次へ
全29ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング