つつじ、芍薬、藤、牡丹、
春と夏との入りかはる
このひと時のめでたさよ。
街ゆく人も、田の人も、
工場《こうば》の窓を仰ぐ身も、
今めづらしく驚くは
隈《くま》なく晴れし瑠璃《るり》の空。
独《ひとり》立つ木も、打むれて
幹を出す木も枝毎に
友禅染の袖を掛け、
花と若芽と香り合ふ。
忙《せは》しき蝶の往来《ゆきき》にも
抑へかねたる誇りあり、
ただ一粒の砂さへも
光と熱に汗ばみぬ。
まして情《なさけ》に生くる人、
恋はもとより、年頃の
恨める中も睦み合ひ、
このひと時に若返る。
ああ、またありや、人の世に
之に比ぶる好《よ》き時の。
いでや短き讃歌《ほめうた》も
金泥をもてわれ書かん。
西部利亜所見
汽車は吼ゆ。
されどシベリヤの
雪と氷の原を行く汽車は
胴体こそ巨大の象のやうなれ、
この怪獣は石炭の餌《ゑ》を与へられず、
薪のみを食らへば、
吼ゆる声の力無く、
のろのろと膝行《ゐざ》りゆく。
露西亜文字《ろしあもじ》を読み得ざれば、
今停まれるは何と云ふ駅か知らず。
荒野《あらの》の中の小き停車場《ステイシヨン》に
人の乗降《のりおり》も無く、
落葉したる白楊の木
其処此処に聳えて、
灰色の低き空の下《もと》
五月の風猶雪を散らせり。
汽笛の叫びに引かれて、
男、女、子供、
すべて靴を穿かぬ
シベリヤの農民等は
手に手に、大《おほい》なる雁を、
鶏を、牛乳を捧げて、
汽車の窓に馳せ寄り、
かしましく買へと云ひぬ。
〔無題〕
わたしの庭の高い木に
秋が琴をば掛けにきた。
翡翠を柱《ぢ》とし、銀線を
絃《いと》にすげたる黄金《きん》の琴。
風は勝れた弾手にて、
人の心の奥にある
弧独の夢をゆり起し、
木《こ》の葉と共に泣かしめる。
〔無題〕
うす紫と、淡紅色《ときいろ》と、
白と、萠黄と、海老色と、
夢の境で見るやうな
はかない色がゆらゆらと
わたしの前で入りまじる。
女だてらに酔ひどれて、
月の明りにしどけなく
乱れて踊る一むれか。
わたしの窓の硝子《がらす》ごし
風が吹く、吹く、コスモスを。
炉の前
かたへの壁の炉の火ゆゑ
友の面輪も、肩先も、
後ろの椅子も、手の書《ふみ》も、
濃き桃色にほほゑみぬ。
部屋の四隅の小暗くて、
中に一もと寒牡丹
われと並びて咲くと見る
友の姿のあてやかさ。
春にひとしき炉の火ゆゑ
友も我身も、しばらくは
花の木蔭を行く如く
こゝろごころに思ひ入る。
楽しき由を云はんとし、
伏せし瞳を揚ぐる時
友も俄かに手を解きて
我手の上にさし延べぬ。
[#改ページ]
大正六年
〔無題〕
わが前の丘に
断えず歌ふは
桃色に湧き上る噴水。
青白き三人の童子は
まるまると肥えし肩に
緑玉の水盤を支へたり。
われは、その桃色の水の
猛火に変るを待ちながら、
ぢつと今日も見まもる。
元旦の歌
初春はきぬ、初春は
新たに焚ける壁の炉よ、
誰もこの朝うきうきと
身をくつろげて打向ふ。
初春はきぬ、初春は
誰の顔にも花にほひ、
誰の胸にも鳥うたひ、
誰の口にも韻の鳴る。
初春はきぬ、初春は
愛の笑まへる広場なり
雄雄しき人も恋人も
踊らんとして手を繋ぐ。
我傍らに咲く花は
わが傍らに咲く花は
傷より滴《た》るゝ血の如し、
この花を見てかなしげに
思ひたまふや何ごとを。
嵐のあとに猶しばし
海の入日の泣くことか、
さては三十路《みそぢ》の更け行けど
飽くこと知らぬわが恋か。
[#改ページ]
大正七年
冬の一夜
おお、錫箔の寒さを持つた夜の空気が、
いつぱいに口を開《あ》いて、
わたしを吸はうとする。
二階の欄干《てすり》に手を掛けながら
わたしの全身は慄へあがる。
屋外《そと》はよく晴れた、冴えた、
高々とした月夜。
コバルトと、白と、
墨とから成つた、素朴な、
さうして森厳な月夜。
月は何処にある。
見えない、見えない、
長く出た庇の上に凍てついて居るのか。
きつと、氷と、されかうべと、
銀の髪とを聯想させる月であらう。
軍医学校の建物はすべて尖り、
軒と軒との間にある空間は
遠くまで運河のやうに光つて居る。
近い一本の電柱は
大地へ無残に打ち込んだ巨きな釘の心地。
あの鈍い真鍮色の四角な光は
崖上の家の書斎の窓の灯火《あかり》。
今、わたしの心に浮ぶのは、
その窓の中に沈思して、恐らく、
まだ眠らずに居る一人の神経質な青年。
ああ世界はしんとして居る。
冬だ、冬だ、
空気は真白く、
天は玲瓏として透きとほり、
月は死霊《しりやう》のやうに通つて行く。
かさ、こそと、低く、
何処かにかすれた一つの物おと……
枝を離れる最後の落葉か、
わたしの心の秘密《ないしよ》の吐息か、
それとも霜であらうか。
前へ
次へ
全29ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング