り。

ちり、りん、りんと一《アン》スウの
小《ちさ》い銅貨が敷石の
上で立てたる走り泣き。
初めのお客は誰れであろ、
わたしも投げてやりませう。

今朝の夜明の四時過ぎに、
誰れかとしたる喧嘩から、
ずつと泣いてたお隣の、
夫人《マダム》の顔をちよいと見た。
向うもわたしをちよいと見た。

思はず髪を引き入れた、
白い四階の窓口へ、
(巴里《パリー》は今日も薄曇り)
湿つた金薄《はく》[#「金薄」はママ]を撒くやうに、
アカシヤの葉が散りかかる。


  ノオトル・ダアム

ああ巴里《パリー》の大寺院ノオトル・ダアムよ、
年経しカテドラルの姿は
いと厳かに、古けれど、
その鐘楼の鐘こそは
万代に腐らぬ金銅の質を有《も》ちて、
混沌の蔓の最先《いやさき》にわななく
青き神秘の花として開き、
チン、カン、チン、カンと鳴る音は
爽かに清《す》める、
劇しき、力強き、
併せて新しき匂ひを
「時」の動脈に注しながら、
「時」の血を火の如く逸ませ、
洪水《おほみづ》の如く跳らせ、
常に朝の如く若返らせ、
はた、休む間なく進ましむ。
その響につれて
塔の上より降《くだ》る鳥の群あり、
人は恐らく、そを
森の梢より風に散る
秋の木《こ》の葉と見ん。
我は馬車、自動車、オムニブスの込合ふサン・ミツセルの橋に立ちつつ、
端なく我胸に砕け入る
黄金《きん》の太陽の片と見て戦《をのの》けり。
その刹那、わが目に映る巴里《パリー》の明るさ、
否《いな》、全宇宙の明るさ。
そは目眩《めくる》めく光明遍照の大海《おほうみ》にして、
微塵もまた玉の如く光りながら波打ち、
我も人も
皆輝く魚として泳ぎ行きぬ。


  覇王樹[#「覇王樹」は底本では「覊王樹」]と戦争

シヤボテンの樹を眺むれば、
芽が出ようとも思はれぬ
意外な辺が裂け出して、
そして不思議な葉の上へ
新しい葉が伸びてゆく。

ああ戦争も芽である、
突発の芽である、
古い人間を破る
新しい人間の芽である。

シヤボテンの樹を眺むれば、
生血に餓ゑた怖ろしい
刺《はり》の陣をば張つて居る。
傷つけ合ふが樹の意志か、
いいえ、あくまで生きる為。

ああ今、欧洲の戦争で、
白人の悲壮な血から
自由と美の新芽が
ずつとまた伸びようとして居る。

それから、
ここに日本人と戦つて居る、
日本人の生む芽は何だ。
ここに日本人も戦つて居る。


  晩秋

S《エス》の字がたの二人《ふたり》椅子《いす》、
背中あはせのいやな椅子、
これにあなたと掛けたなら、
この気に入つた和蘭陀《オランダ》が
唯だの一夜《ひとよ》で厭になろ、
その思出もうとましい。
ギヤルソン外[#「外」はママ]にいい部屋は無いの。
[#地より8字上げ](アムステルダムの一夜)

[#改ページ]

 大正四年


  温室

広き庭の片隅に
物古りたる温室あり、
そこ、かしこ、硝子《ガラス》に亀裂《ひび》入り、
塵と蜘蛛の糸に埋れぬ。

棚の上の鉢の花は皆
何をも分かず枯れたれど、
一鉢の麝香撫子のみ
はかなげに花|小《ちさ》く咲きぬ。

去年《こぞ》までは花皆が
おのが香と温気とに
呼吸《いき》ぐるしきまでに酔ひつゝ、
額《ぬか》重く汗ばみしを、

今、温室は荒れたり、
何処《いづこ》よりか入りけん、
憎げなる虻一つ
昼の光に唸るのみ。


  〔無題〕

今夜|巴里《パリー》は泣いて居る。
シヤン・ゼリゼエの植込も、
セエヌの水もしつとりと
青い狭霧に街灯の
涙を垂れて泣いて居る。


  〔無題〕

群をはなれて※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダに
君ただひとり立つなかれ、
今宵は空の月さへも
人の踊を覗けるに。

いざ君、室内《うち》の卓に凭り、
ワルツの曲を聞きながら、
夜《よ》ひと夜《よ》取れよ、花の香《か》と、
香料の香と、さかづきと、

女の燃ゆるまなざしと、
きやしやに艶《いろ》めく肉づきと、
軽き笑まひと、足取と、
さらに渦巻く愛と美と。
[#改ページ]

 大正五年


  〔無題〕

せよ、怖い顔を、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の宝である
唯一の劒を大事にせよ。

せよ、賢相《かしこさう》な顔を、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の護符である
てんかこくかを口にせよ。
おまへ達は決して笑はない。
おまへ達の望んで居る
日独同盟の成る日が来るとも、
どうして神聖サムラヒ族の顔が崩れよう。

おまへ達は科学主義の甲《よろひ》を着て、
血のシンボルの旗の下《もと》に、
おまへ達の祖先である
南洋食人族の遺訓を行はうとする。

世界人類の愛に憧れる
われわれ無力の馬鹿者どもは
みんなおまへ達に殺されねばなるまい、
おまへ達が初めて笑ふ日のために。

併し……


  春より夏へ

八重の桜の盛りより
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