り。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
げに其声は鈴を振る。
駄馬の鈴ならず、
橇の鈴ならず、
法師の祈る鈴ならず。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
朗朗として澄み昇る。
聴けば唯だ三節《みふし》なれど、
すべてみな金《きん》の韻なり、
盛唐の詩の韻なり。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
その声は喜びに溢る。
促されずして歌ひ、
堪へきれずして歌ひ、
恍惚の絶巓《ぜつてん》に歌ふ。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
なんぞ傍若無人なる。
寸にも足らぬ虫なれど、
今彼れの心に
唯だ歌ありて一切を忘る。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
彼の虫ぞ自らを恃める。
人間の心には気兼あり、
疚《やま》しき所あり、
諂《へつら》ふことさへもあり。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
誰れか今宵その籠を掛けたる。
わが子らの中の
いづれの子のわざならん、
かの※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダに掛けたるは。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
猶かの※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダより起る。
すでに午前一時、
その硝子には白からん、
栴檀の葉を通す十五夜の月。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
月の光の如く流る。
虫よ知るや、其処の椅子に、
詩人木下杢太郎博士
十日前に来て掛け給ひしを。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
更けていよいよ冴え渡る。
また知るや虫よ、其の※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダは
火曜日ごとに若き女達きて
我れと共に歌ふ所なるを。
りん、りん、りんと鈴虫の声、
書斎に入りて我れを繞る。
我れは猶筆を捨てず、
よきかな、我が思ひと我が言葉
今は鈴虫の韻に乗る。
庭の一隅
同じ囲ひのうちに
鶏のむれ、鵞鳥のむれ、
すでに食み終りて
猶も餌を待てり。
餌の無きにあらず、
彼等の目の見難きなり。
見よ、同じ囲ひのうちに
雀の下《お》りて食めるを。
猶よく見よ、餌を運ぶ蟻は
今正に収穫の農繁期なり。
[#改ページ]
昭和七年
〔無題〕
飢ゑたひよ鳥も食べぬ
にがい、にがい枳殻《からたち》の実、
飢饉地の子供が其れを食べる。
わたしの今日此頃の心も
人知れず枳殻の実を食べる。
〔無題〕
唯一つ、空《そら》に
さし出した手は寂しい。
しかし、待て、
皆が、皆が、一斉に
手を伸ばす日は来ぬか。
〔無題〕
わたしは
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