お猿

お猿が出て来た、
負はれて出て来た。
お目をぱちくり[#「ぱちくり」に傍点]、
赤ん坊《ぼ》のお猿。

お猿、手に持つ、
小《ちさ》い紅《べに》の扇。
負はれた背《せな》から
ちよこなん[#「ちよこなん」に傍点]と降りた。

降りたお猿は
足もとふらふら[#「ふらふら」に傍点]、
狭い座敷を
斜めに歩るき、

舞ふかと思《おも》たら、
嬢さんの前で、
あれ、まあ、赤ン目《べ》をする、――
いやなお猿。

[#改ページ]

 大正十一年


  旭光照波

元日の夜明の
伊豆の海のほとり、
大《おほい》なる浴室の此処彼処、
うす闇の中に
人々の白き人魚の肌。

がらす戸の外には
たわやかなる紺青の海。
大空の色は翡翠の如く、
その空と海の合へる涯には
今起る、
黄金《きん》と焔の雲の序曲。

あはれ、神々しき
初日の登場、
燦爛たる火の鳥の舞。
大海《おほうみ》は酔ひて、
波ことごとく
恋する人の頬《ほ》となりぬ。


  家

崖に沿ひたる我が家は、
その崖下を大貨車の
過ぎゆく度に打震ふ。
四とせ五とせ住みながら、
慣れぬ心の悲しさに、
また地震かと驚きぬ。
船をば家とする人も
かかる恐怖《おびえ》を知らざらん、
我れは家をば船とする。


  〔無題〕

からりと晴れた
夏の日に、
季節ちがひの
くわりん[#「くわりん」に傍点]の果《み》の香りが
一すぢ、
わたしの心のなかに、
その果肉の甘さを以て
ただよつてゐる。

わたしの心は
踊り疲れた女のやうに
半眠つてゐる。
さうして、半嗅いでゐる、
そのくわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りを。

こんな時が
十分ほど続いて、
ふと現実に還つたあとで、
また、姑《しば》らく、
わたしの重い頭が
猶そのくわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りを
目の前にあるやうに探してゐる。

耳もとには
貪欲な蚊が一つ二つ唸つてゐる。
平凡な
暑くるしい夕ぐれ。
書きかけた原稿が
机にわたしを待つてゐる。
くわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りは
わたしの感情と一緒に
もうまた帰りさうにない。


  〔無題〕

地平線は
高く高く上《あが》つて、
はての無い燥《かわ》いた砂原を、
星の多い、
明るい月夜の空に
結びつけてゐる。

砂原のなかには、
一ところ、
廃墟のやうな、
一段盛りあがつた丘の上に、

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