一本の、
ひよろ、ひよろとしたねぢり[#「ねぢり」に傍点]草が
わたしの心に一ぱいになつて光つて居る。
どんなに、わたしの心が、今朝、
美くしい空虚《からつぽ》であつたのか、
そして、わたしは満足して居る。
一本の
ひよろ、ひよろとしたねぢり草が
わたしの心へ入つて来たことに、
すき通る緑、
泣いた女の瞼のやうな薄桃色。


  〔無題〕

大粒で無い秋の雨が
思ひ出したやうに、折折、
ぽつり、ぽつりと
わたしの髪を打つ。
黄ばんだ萱の葉を打つやうに、
咲き残つた竜胆《りんだう》の花を打つやうに。
わたしは今、
東京の大通りを急ぎながら、
心は
浅間の山の裾野を歩いて居る。


  〔無題〕

わたしの一人の友が
逢ふたびに話す、
大正六年の颱風に
千葉街道の電柱が
一斉に、行儀よく、
濡れながら、
同じ方向へ倒れて居たことを、
わたしは、その快い話から、
颱風を憎まない。
それが破壊で無くて
新しい展開であるのを思ふと、
颱風を愛したくさへなる。
おお、一切の煩瑣な制約を掃蕩する
天来の清潔法である颱風。


  〔無題〕

青い淵、
エメラルドを湛へて
底の知れない淵、
怖ろしい淵、死の淵。
所へ、「みづすまし」が
一匹ふいと現れて、
細長い
四本の脚で身を支へ、
円く、円く、軽軽と、
踊つたり、舞つたり。

淵は今「みづすまし」の
美くしい命の
「渦巻つなぎ」に満ち、
この芸術家的な虫の
支配のもとに、
見るは唯だメロデイの淵、
恍惚の淵、青い淵。
[#改ページ]

 大正十年


  紙で切つた象

母さん、母さん、
端書《はがき》を下さい、
鋏刀《はさみ》を下さい、
お糊を下さい。

アウギユストは今日、
古い端書で
象を切ります。
きり、きり、きり、きり。

そおれ、長い長いお鼻、
そおれ、脊中、
まんまるい脊中。
きり、きり、きり、きり。

それから、小さな尻尾《しつぽ》、
後脚とお腹、
さうして前脚。
きり、きり、きり、きり。

少し後脚が短い、
印度《インド》から歩いて来たので、
くたびれて、
跛足《びつこ》を引いて居るのでせう。

象よ、板の上に、
足の裏を曲げて、
糊をば附けて、
さあ、かうしてお立ち。

可愛い象よ、
お腹が空いたら、
藁を遣ろ、
パンを遣ろ。

母さん、母さん、
象の脊中には何を載せるの。
人間ですか、
荷物ですか。


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