火ゆゑ
友も我身も、しばらくは
花の木蔭を行く如く
こゝろごころに思ひ入る。
楽しき由を云はんとし、
伏せし瞳を揚ぐる時
友も俄かに手を解きて
我手の上にさし延べぬ。
[#改ページ]
大正六年
〔無題〕
わが前の丘に
断えず歌ふは
桃色に湧き上る噴水。
青白き三人の童子は
まるまると肥えし肩に
緑玉の水盤を支へたり。
われは、その桃色の水の
猛火に変るを待ちながら、
ぢつと今日も見まもる。
元旦の歌
初春はきぬ、初春は
新たに焚ける壁の炉よ、
誰もこの朝うきうきと
身をくつろげて打向ふ。
初春はきぬ、初春は
誰の顔にも花にほひ、
誰の胸にも鳥うたひ、
誰の口にも韻の鳴る。
初春はきぬ、初春は
愛の笑まへる広場なり
雄雄しき人も恋人も
踊らんとして手を繋ぐ。
我傍らに咲く花は
わが傍らに咲く花は
傷より滴《た》るゝ血の如し、
この花を見てかなしげに
思ひたまふや何ごとを。
嵐のあとに猶しばし
海の入日の泣くことか、
さては三十路《みそぢ》の更け行けど
飽くこと知らぬわが恋か。
[#改ページ]
大正七年
冬の一夜
おお、錫箔の寒さを持つた夜の空気が、
いつぱいに口を開《あ》いて、
わたしを吸はうとする。
二階の欄干《てすり》に手を掛けながら
わたしの全身は慄へあがる。
屋外《そと》はよく晴れた、冴えた、
高々とした月夜。
コバルトと、白と、
墨とから成つた、素朴な、
さうして森厳な月夜。
月は何処にある。
見えない、見えない、
長く出た庇の上に凍てついて居るのか。
きつと、氷と、されかうべと、
銀の髪とを聯想させる月であらう。
軍医学校の建物はすべて尖り、
軒と軒との間にある空間は
遠くまで運河のやうに光つて居る。
近い一本の電柱は
大地へ無残に打ち込んだ巨きな釘の心地。
あの鈍い真鍮色の四角な光は
崖上の家の書斎の窓の灯火《あかり》。
今、わたしの心に浮ぶのは、
その窓の中に沈思して、恐らく、
まだ眠らずに居る一人の神経質な青年。
ああ世界はしんとして居る。
冬だ、冬だ、
空気は真白く、
天は玲瓏として透きとほり、
月は死霊《しりやう》のやうに通つて行く。
かさ、こそと、低く、
何処かにかすれた一つの物おと……
枝を離れる最後の落葉か、
わたしの心の秘密《ないしよ》の吐息か、
それとも霜であらうか。
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