拵へなすつてね、今日は動けないんですよ。』
 私は女に指を二寸程出して見せられるのを、先刻聞いた三里五里と同じやうに思つて眺めて居ました。
『ひどいものですね。』
 とまた女は云ひました。
『それは気の毒だ。』
『旅へ出て苦労ばかりしますよ。真実に。』
『あなたの国は何処だい。』
『お父様《とつつあん》は宇治なんです。』
『京のかね。』
『ええ、お母さんと云ふお方は九州の人で、それが私のやうに彼方此方とまごついて、東京へ来ましてお父様と一緒になつたのでせう。それから九州へ帰りまして商売[#「商売」は底本では「商買」]をしましたのですが、私の八つの時にお父様《とつつあん》は死にましたのです。そしてお母様は三人の子のある男を家へ入れたんですよ。その男に三軒も出してあつた店は皆つぶされてしまひまして、私は終ひに女郎にまで売られたのですよ。』
『さうかね。』
『Yさんがくはしいことをお話しましたさうですね。』
『少しは聞きましたがね、あの六百枚から書いておいでになつた小説を見ればよく解るのだらうけれど、そんな暇がないものだから。』
『さうですか、まあ厭だ。この間もね、今日はすつかり此方《こちら》へ行つてお話して来た。すつかりお話して来たなんか云つて居るのですよ。』
 先刻女中に渡して置いた末の子が泣いて居るのを私は知つて居ながら、立つて行つてはこの人に悪いやうな気がしてじつとして居るのでした。直ぐ梯子段の下まで来て居るらしいので、私は座を離れて行つて、
『伴れていらつしやい。』
 と云ひました。子供は涙の溜つた目で嬉し相に両親を見廻しながら抱かれて入つて来ました。
『女のお子さんなんですか。』
 子供には赤い無地のメリンスを着せてあつたのです。
『男ですよ。』
『まあ可愛らしい。』
 女は手を出して私の膝の上に居る子供をあやすやうにして居ました。よく笑ふ子ですから、きいきいと云つて居ました。
『Y君はよく東京の事情を知らないものだから、原稿さへ書けば直ぐ金になると思つて居たので、気の毒だ。』
『それですよ。書いてしまつたら屹度お金になるんだと云ふものですから、どうぞ書いて頂戴、私はその間どうでもしますつて云ひましてね。働いて居たんですよ。その間はYさんもさうですが私も毎晩二三時頃まで寝ませんでしたよ。』
『金は出来ないでもY君の仕事は真面目なことで、そしてきつと立派なものが
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