悪龍《あくりよう》となりて苦しみ、猪となりて啼《な》かずば人の生み難きかな。
蛇の子に胎を裂かるる蛇の母そを冷くも「時」の見詰むる。
[#ここで字下げ終わり]
と思つて悲鳴を続けて居るより外は無かつた。先に生れた児は思つたよりも容易でしたが、例の飛行機が縦横にわたしを苦める。博士が「手術をしよう」と沈着《おちつ》いた小声で言はれた時、わたしは真白な死の崖《きりぎし》に棒立になつた感がした。
逆児の飛行機が死んで生れた。後で聞くと院長さんが直ぐに人工呼吸を施して下さつた相であるけれど甲斐が無かつた。
[#ここから3字下げ]
その母の骨ことごとく砕かるる呵責の中に健き児の啼く。
胎の子は母を噛むなり。静かにも黙せる鬼の手をば振るたび。
よわき児は力およばず胎に死ぬ。母と戦ひ姉と戦ひ。
あはれなる半死の母と呼吸せざる児と横たはる。薄暗き床。
[#ここで字下げ終わり]
産後の痛みが又例に無い劇しさで一昼夜つづいた。此痛みの劇しいのは後腹の収縮の為に好い兆候だと云ふのですけれど、鬼の子の爪が幾つもお腹に引掛つて居る気がして、出た後でまでわたしを苦めることかと生れた児が一途に憎くてなりませなんだ。親子の愛情と云ふものも斯う云ふ場合には未だ芽を萌《ふ》かない。考へて見ると変なものである。
隣の室で良人の弟と昴《すばる》発行所の和貝さんとが、死んだ児の柩に成るべく音を立てまいとして釘を打つて居る。良人が「一目見て置いて遣らないか。これまでに無い美くしい児だ」と云つたけれど、わたしは見る気がしなかつた。産後の痛みの劇しいのと疲労とで、死んだ子供の上などを考へて居る余裕は無かつた。
[#ここから3字下げ]
その母の命に代はる児なれども器の如く木の箱に入る。
虚無を生む、死を生む、斯かる大事をも夢と現の境にて聞く。
[#ここで字下げ終わり]
実際其場合のわたしは、わが児の死んで生れたと云ふ事を鉢や茶椀が落ちて欠けた程の事にしか思つて居なかつた。桐ヶ谷の火葬場まで送つて来て呉れた弟が、その子煩悩な心から「可愛い児でしたのに惜しい事をしました」と云つて目を潤ませた時、初めてわたしも目が潤んだ。其れは死んだ児の為に泣いたのではない、弟の其子煩悩な美くしい涙に思はず貰泣をしたのであつた。
漸く産後の痛みが治つたので、うとうとと眠らうとして見たが、目を瞑《つぶ》ると種種の厭な幻覚に襲はれて、此正月に大逆罪で死刑になつた、自分の逢つた事もない、大石誠之助さんの柩などが枕許に並ぶ。目を開けると直ぐ消えて仕舞ふ。疲れ切つて居る体は眠くて堪らないけれど、強ひて目を瞑ると、死んだ赤ん坊らしいものが繊《ほそ》い指で頻に目蓋《まぶた》を剥かうとする。止むを得ず我慢をして目を開けて居ることが又一昼夜ほど続いた。斯んな幻覚を見たのは初めてである。わたしの今度の疲労は一通で無かつた。
日が経つに従つて産後の危険期も過ぎ、余病も癒り、体も心持も次第に平日に復して行くらしい。昨日から少しづつ室内を歩く事を許され、文字なども短いものならば書いてよい事になつた。
わたしの目に触れないで消えて仕舞つた死んだ赤ん坊の印象は、産の苦痛の無くなつた今日何もわたしに残らない、まるで人事の様である。空である、虚無である。唯其児の為にと思つて拵へた赤い枕や衣類が、副室の押入に余計な物になつて居るのを見ると、物足らない淡い哀しみが湧いて来る。やはり他人に別れたのでは無い、棄てられた母と云つた様な淋しい気持である。
看護婦さんは硝子の花瓶から萎れたヘリオトロオプを一本抜いて捨てに行つた。
わたしは早く騒しい中六番町の宅へ帰りたい。
婦人問題を論ずる男の方の中に、女の体質を初から弱いものだと見て居る人のあるのは可笑《をか》しい。さう云ふ人に問ひたいのは、男の体質はお産ほどの苦痛に堪へられるか。わたしは今度で六度産をして八人の児を挙げ、七人の新しい人間を世界に殖した。男は是丈の苦痛が屡※[#二の字点、1−2−22]せられるか。少くともわたしが一週間以上一睡もしなかつた程度の辛抱が一般の男に出来るでせうか。
婦人の体質がふくよかに美しく柔かであると云ふ事は出来る。其れを見て弱く脆いと概論するのは軽卒で無いでせうか。更に其概論を土台にして男子に従属すべき者だと断ずるのは、論ずる人の不名誉ではありませんか。
[#ここから3字下げ]
男をば罵る。彼等子を生まず命を賭けず暇あるかな。
[#ここで字下げ終わり]
わたしは野蛮の遺風である武士道は嫌ですけれど、命がけで新しい人間の増殖に尽す婦道は永久に光輝があつて、かの七八百年の間武門の暴力の根柢となつて皇室と国民とを苦めた野蛮道などとは反対に、真に人類の幸福は此婦道から生じると思ふのです。是は石婦《うまずめ》の空言では無い、
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング