う思われます。男は小児《こども》との間に精神上にも肉体的にもこういう関係が微塵《みじん》もないのに何故《なぜ》可愛いのでしょうか。

 また小説を読みましても、花袋先生の「蒲団《ふとん》」の主人公が汚らしい蒲団を被《かぶ》って泣かれる辺《あたり》の男の心持はどうしても私どもに解り兼ねます。ああいう小説を読むと、肉感的、動物的であるというのは婦人に下す判断でなくて、かえって男に下すのが正しくはないかなどと考えます。女から見れば、男は種種《いろいろ》の事に関係《たずさわ》りながらその忙《せわ》しい中で断えず醜業婦などに手を出す。世の中の男で女に関係せずに終るという人は殆どありますまい。女は二十《はたち》以前、それから母になって後という者は概《おおむ》ねそれらの欲が少くなり、または殆ど忘れる者さえあると申しますのに、近年男の文学者の諸先生の中には中年の恋と申すような事が行われます。また未成年の男子や六、七十歳の男子までが若い婦人に戯れる実例は目に余るほどあります。

 しかし病的な婦人の除外例を例として女を肉感的だと断ぜられない如く、男をも一概に動物的であるとは申されますまい。「蒲団」の主人公などはやはり病的な男子の除外例でしょう。一体男女の区別と申すものが従来《これまで》のは余りに表面《うわべ》ばかり一部分ばかりを標準にしてはおりませんか。世間には女のような容貌《ようぼう》、皮膚、声遣《こわづか》い、気質、感情を持った男子があり、また男のようなそれらの一切を持っておる婦人があります。即ち子を産む機能を備えた男、文学者、教師、農夫、哲学者となる技倆《ぎりょう》を持った女というような人が随分あるかと存じます。種種《いろいろ》の学理と種種の実験とから調べましたなら男女の区別の標準を生殖の点ばかりに取るのは間違かも知れません。そうすれば男女のいずれかが全く肉感的であるというような事も間違であって、肉感的な人は男女のいずれにも多少あり、もしくは人間は一般に多少肉感的であるという事に帰するかも知れません。小説にはそういう所まで学理と実際の観察とで書かれていなければ進歩したとは申されませんでしょう。

 男の作家に真の女は書けないかも知れぬという説がありますけれど、どうでしょうか。女には幾分女でなければ解《わから》ぬという点も前に申した通りでありましょうが、同じく「人」である女の大部
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