の味方になれる人は一人もない。命掛の場合にどうしても真の味方になれぬという男は、無始の世から定《さだま》った女の仇《かたき》ではないか。日頃の恋も情愛も一切女を裏切るための覆面であったか。かように思い詰めると唯もう男が憎いのです。
しかし児供《こども》が胎《たい》を出《い》でて初声《うぶごえ》を挙げるのを聞くと、やれやれ自分は世界の男の何人《だれ》もよう仕遂《しと》げない大手柄をした。女という者の役目を見事に果した。摩耶夫人《まやぶにん》もマリヤもこうして釈迦や基督を生み給《たも》うたのである、という気持になって、上もない歓喜《よろこび》の中に心も体も溶けて行く。丁度その時に痛みも薄らいでいますから、後の始末は産婆に頼んで置いて、疲労から来る眠《ねむり》に快く身を任せます。勿論《もちろん》男の憎い事などは産が済んだ一刹那《いっせつな》に忘れてしまった自分は、世界でこの刹那に一大|功績《てがら》を建てたつもりですから、最早如何なる憎い者でも赦《ゆる》してやるといったような気分になります。
近頃小説家や批評家の諸先生が、切端《せっぱ》詰った人生という事を申されますが、世の中の男の方が果して産婦が経験するほどの命掛の大事に出会われるかどうか、それが私ども婦人の心では想像が附きません。切端詰った人生といえば「死刑前五分間」に優るものはないように思われますが、産婦は即ちしばしば「死刑前五分間」に面しております。いつも十字架に上《のぼ》って新しい人間の世界を創《はじ》めているのは女です。花袋《かたい》先生が近頃『女子文壇』で「女というものは男子から見《みる》と到底疑問である」と言われたのは御説《おせつ》の通《とおり》であろうと存じますが、しかし「男子と女子とは生殖の途《みち》を外《ほか》にして到底没交渉なのではないか」と言われたのは、私が前に「男が憎い」と申した理由を確めて男子の無情を示す事にはなりますが、「現実を客観する」事の出来る理性の明かな男の方が、人生における婦人の真の価値を闡明《せんめい》せられた事にはなりません。
婦人がなくて何処《どこ》に人生が成立ちましょう。どうして男子が存在されましょう。この明かなる事実を御覧になる以上、男女の交渉が如何に切実で全体的であるかは申すまでもない事と存じます。「生殖の途を外にして到底没交渉なのではないか」といわれるのは、生殖
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