本位の生活内容であって、私たちはそれらの場合に必ずしも国民としての生活や世界人としての生活を意識してはおりません。また私たちが租税を納めたり、女子に政治上の投票権を与えられることを望んだりする場合には国民本位の生活をしている時であって、その時にあるいは個人生活の意識を背景としている場合はあるにしても、必ずしも世界人としての生活を意識してはおりません。また私たちが学問芸術を研究し鑑賞する場合には人種と国境と国民的歴史とを超越した世界人類本位の生活の中に生きているのであって、その当面の幾刹那もしくは幾時間には、個人生活の利害や国民生活の利害などを眼中に置いてはおりません。これは誰にも明瞭な共通の実感です。こういう場合には三つの生活が自然に融和流動していて、必要に応じてあるいは個人本位の面を生活の中心とし、あるいは国民本位の面を、あるいは世界本位の面を生活の中心として濃く彩《いろど》っているだけのことで、一つが他の二つを藐視したり、意識していなかったり、超越していたりするように見えるのは、決して三つの生活が分裂しているのでなくて、かえってそう見えるまでに三つの生活の差が自然に塗り消され融かされて一体となっているのであると思います。
 右のような場合には、個人生活という中に他の二つの生活が自然に包容され、国民生活という中に個人生活も世界生活も摂取され、世界生活という中に同じく他の二つの生活が内含されていて、何の扞格《かんかく》も凝滞《ぎょうたい》も発見されず、極めて平和であるのです。私は誰にも明瞭なこの共通の実感と同じ状態の中に、如何なる場合でも三つの生活を融合させた一体のものとして経験したく思います。そうして、この要求が意識的なものであるだけ、その融合をも意識的に企画し努力せねばなりません。
 例えば戦争というような場合は、国民と国民とが――その代表である国家と国家とが――戦争するので、それが個人及び世界人類の幸福となる結果は既往にも甚だ稀《まれ》にしかなかったのです。殊に今日は腕力の延長である戦争、野蛮時代の遺習である戦争に由って国民生活の利益を計る事の不法に何人《なんぴと》も目の覚めない時代ではありません。そして戦争が最早国民生活の利益になるのでないこともこの度の大戦争で明白になりました。個人生活を虐《しいた》げ、世界生活の平和を攪乱《かくらん》して置いて、ひとり国民
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