ても、乗車賃のかさむ心配はいらないのでした。私は入口の隅に腰を掛けて居ました。安兵衛の顔の近く見える方が心丈夫だつたのです。私の親しい同《おなじ》町内の子供達が、皆旗を貰つて馬車からばら/\と帰つて行き、薄見知《うすみし》りの顔の交つた隣町の子供等にも別れ、終《しま》ひには誰一人|馴染《なじみ》のない子供等の中に、私だけが交つて行くことになつたのです。窓から外を眺めますと、人通りの少くて町幅の広い寺町《てらまち》に来て居ました。友吉はぱつぱつぱつ、ぱぱつ、ぱぱつと喇叭を吹きました。どんなにその音が私に悲しかつたでせう。車が停《とま》つた時に、安兵衛は私の淋しい顔を見て、
「嬢やん、豆あげまひよか。」
と云ひました。
「ちつとも欲しいことない。帰りたいのや。」
 涙がほろほろと零《こぼ》れました。
「いきまへんな。一番終ひに送つたげまつせ。」
 私は仕方なしに点頭《うなづ》いて居たのでせう。私の家《うち》のある方を背にして、車は南へ南へと行きました。私はそれきりその馬車に乗つた覚えはありません。何でも大人達の話で聞くと、友吉と安兵衛の仕事は一月《ひとつき》も続かなかつたのださうでした。損を余程沢山したとかも聞きました。二人はまた同時に車夫に帰つて、私の家《うち》の父や番頭の大阪行を引いて来た後《あと》を、銀場《ぎんば》の板《いた》の間《ま》で向ひ合つて食事などをして居ました。この二人が運んで行くのに余る大阪行の人数である時には、がた馬車がよく雇はれて来ました。私はその時分満|四歳《よつつ》位だつたと思ひます。私と弟とが母と姉の中に腰を掛けた馬車の中の向側には、妹を抱いた乳母《うば》や女中が居ました。親類の小母《をば》さんなども居ました。私の家の大阪行には、必ず決つた様式がありました。春であるなら遅い早いにかゝはらず、牡丹《ぼたん》で名高い吉助園《きちたすゑん》と云ふ植木屋へ最初に行くのです。それから上本町《うへほんまち》の博物場へ廻るのです。中《なか》の島公園《しまこうゑん》へも行くのです。そして浪華橋《なにはばし》の下の生洲《いけす》の網彦《あみひこ》と云ふ川魚料理の船で、御飯を食べて帰るのでした。こと、こと、ことと浪華橋の下駄の音がする時に、私等は船の障子を開けて、淀川《よどがは》の水をちやぶちやぶと手で弄《もてあそ》ぶのが、どんなに楽いことでしたらう、その頃の私
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