《ほそおもて》の美くしい竹中はんが、女中と並んで十一時半頃に東の方から歩いて来るのを見ました時、私の胸にはどんなに高い動悸が打つたでせう。私の居る二階の下まで来ました時、竹中はんは上を一寸《ちよつと》見上げたまゝで、ずつと通つて行つてしまひました。失望して居る私に女中は午後《ひるから》を待てとも云ひませんでした。私も黙つて居ました。竹中はんは決して遊びに来てくれはしないとその刹那に感じました通り、その人とそれきり遊んだ覚えはありません。私はそれから満|五歳《いつつ》までは、学校通ひを止《や》めさせようと云はれて家《うち》に置かれて居ました。


私の生ひ立ち 二 狸の安兵衛/お歌ちやん

狸の安兵衛

 私の小い頃に始終家に出入りして居た車夫は、友吉《ともきち》と安兵衛《やすべゑ》の二人でした。安兵衛は狸の安兵衛と云はれて居ました。私はその人を真実《ほんたう》の狸とも思つて居ませんでしたが、人間とは少し違ふもののやうに思つて居ました。安兵衛は肱《ひぢ》に桃色をした花の刺青《いれずみ》がしてありました。友吉は顔に黒子《ほくろ》が幾つもある男でした。私の家《うち》ではどう云ふ理由《わけ》でか友吉の方を重んじて居ました。父と母が外出する時には、必ず父は友吉の方の車に乗りました。母が女中を供にして行く時には、女中が安兵衛の車に乗せられました。この二人の男は、ある時相談をして車夫を廃《や》めて新しい事業を起すことにしました。私は父母の前で、その計画に就《つ》いて度々友吉の語つて居るのを聞きました。今から思つて見ますと、そんなことは大阪あたりで誰かの既にもうして居たことで、友吉等はその模倣者であつたのでせう。それは青や赤で塗つた箱馬車に子供を乗せて、一つの町を一廻《ひとまは》りして、降ろす時に豆と紙旗を与へるのでした。馬は真実《ほんたう》のでなく、紙ばかりでやはり赤や青で塗られたものでした。もとより自動車ではありませんから、誰かが押して歩いたものと思はれます。友吉と安兵衛は、揃ひの赤い洋服を着て居ました。友吉は御者台《ぎよしやだい》に居て喇叭《らつぱ》を吹いて居ました。安《やす》は後《うしろ》の板の上に立つて居ました。乗車賃は一銭位でしたらう。豆は三角の紙袋に入つて居ました。私は営業者の好意で、初めてから三日目位に、無賃でその馬車に乗せられました。ですから町々の辻を幾つ乗り越し
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