です。而《しか》し私は恥しがりの子でしたから鹿喰《しゝくひ》と云ふ叔母の家ででも龍源ででも余り座敷へ上つて遊ぶやうなことはありませんでした。鹿喰では金魚池の傍《そば》まで庭口から行つて見るだけで、龍源の家ででもお雛様の時の外《ほか》は大抵遊ぶのは裏庭の蔵の蔭で、筵《むしろ》を敷いて小樽を幾つも並べたり、二つの樽に板を渡したりした上で玩具《おもちや》を弄《もてあそ》んで居たのでした。おさやんと私の小学校はもとより違つて居ました。おさやんは晴々とした顔で、色の白い目の大きい口元の美くしい人形のやうな少女でした。友染《いうぜん》の着物に白茶錦《しらちやにしき》の帯を矢《や》の字《じ》結《むす》びにして、まだ小い頃から蝶々髷《てふ/\まげ》やら桃割《もゝわれ》を結《ゆ》つて、銀の薄《すゝき》の簪《かんざし》などを挿して、住吉祭《すみよしまつり》の神輿《みこし》の行列を私の家へ見物に来て居る時などは人が皆表の道に立留つておさやんを眺めました。私は髪もお煙草盆《たばこぼん》で、縞《しま》の着物に水色の襟《えり》を重ねて黒繻子《くろじゆす》の帯をさせられて居ました。私と私の妹とおさやんの三人で堺《さかひ》の街の北の西の端の海船《かいせん》と云ふ所へ、それも夏祭などのおよばれに行つて居ますと、同じ堺でも其処等辺《そこらへん》の人は私等を見知つて居ませんから、
「兄弟やらうけれど、姉《ねえ》さんが一番|綺麗《きれい》な子やな。」
などと云つたりして居ました。おさやんは私の母から私よりも大切なのかと思ふ程に可愛《かは》ゆがられて居ました。おさやんは庭から帰るやうなことをせずに私の家では家の人のやうに用の手伝ひなどをして居ました。
 私はおさやんに関りのあることで恥しいことをお話ししなければなりません。私の七歳《ななつ》か八歳《やつつ》ぐらゐの時に、私の母の両親は極く近い所にある私の家の借家を隠居所にして居ました。龍源の叔母はよくおさやんを伴《つ》れて其《その》隠居所へ来て居ました。私もよく其処《そこ》へ行つて居ました。其《その》時分に女の子が江戸紫《えどむらさき》の無地の帯をすることが流行《はや》つて居たと見えまして、或時二人は自身達の帯の色が同じであることを発見して喜びました。けれどもおさやんのは縮緬《ちりめん》で私のはメリンス地でした。二人はまた其《その》事にも気が附いて来ました。
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