の石盤を覗く、そんなかたまりが教場の彼方此方《あちこち》で出来ると云ふのが、遊び時間の光景でした。継子と本子《ほんこ》の名には、大抵おぎん小ぎんが用ゐられて居ました。私はもうそれに飽き飽きしました。今日もまた厭《いや》な話を聞かされるかと云ふやうな悲みをさへ登校する途々《みち/\》覚えました。私はもとより一度も話者《はなして》にはなりませんでした。ところが或日の昼の長い遊び時間に私は、
「今日は私がお話をして上げます。けれど絵は描きません。自分の真実《ほんたう》の話なんですから。」
 こんなことを突発的に云ひました。そしてそれから私の話したことは嘘ばかりです。私はその時もう父に伴《つ》れられまして、京都を見て来て居ました。外《ほか》の人達にはその経験がないのです。けれど皆祖父母や親達の口から、西京《さいきやう》と云ふ大きい都、美くしい都の話だけは聞いて居て、多少の憬《あこが》れを持つて居ない者はないのです。一度行つたことのある私は、その以後人の話に注意をして、京でまだ自分の知らぬ名所や区の名などを覚えたり、或いは想像して見たりすることがあつたのです。
「皆さん、私は京都に家《うち》があるのです。今迄隠して居ましたけれど。」
 誰一人|真実《ほんたう》かと問ふ者もありません。皆驚きの目を見張つて居るだけです。
「では継子なんですか。」
「ええ、けれど私は京に居ても、継母を持つてたのですよ。初めから継子ですよ。」
「可哀相なこと。」
と口々に云つて、私の背を撫でたりする人もありました。何時《いつ》の間《ま》にか外《ほか》の継子話に寄つた人達も私の傍《そば》へ皆出て来ました。
「私の家は京の三条通りなんです。横町は松原通りです。」
 松原も三条も東西の通りですが、私はこんなことを云つてました。
「そして家《うち》の左の方は加茂川《かもがは》なのです。綺麗《きれい》な川なのですよ、白い石が充満《いつぱい》あつてね、銀のやうな水が流れて居るのです。東山《ひがしやま》も西山《にしやま》も北山《きたやま》も映ります。八坂《やさか》の塔だの、東寺《とうじ》の塔だの、知恩院《ちおんゐん》だの、金閣寺《きんかくじ》だの銀閣寺《ぎんかくじ》だのがきらきらと映ります。」
「まあそんなにいゝとこだすか。」
「ええ、家《うち》の裏の木戸を開けて、石段を下りて、それから小い橋をとん/\と踏んで行
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