、宿院浜《しゆくゐんはま》、熊野浜《くまのはま》などと組々の名の書いた団扇《うちは》を持つて、後鉢巻《うしろはちまき》をした地車《だんじり》曳きの子供等が、幾十人となく裸足《はだし》で道を通ります。風呂に入りますと、浴槽《ゆぶね》の湯が温泉でも下に湧き出して居るやうに、地車《だんじり》の響で波立ちます。大鳥さんの日の着物は、大抵紺地か黒地の透綾上布《すきやじやうふ》です。襦袢《じゆばん》の袖は桃色の練絹《ねりぎぬ》です。姉は水色、母は白です。男作《をとこづく》りと云つて小い時から、赤気の少い姿をさせられて居る私等のやうな子のさせられる帯は、浅黄繻子《あさぎじゆす》と大抵決まつて居ました。襦袢の襟《えり》もそれです。頭はおたばこぼんですから、簪《かんざし》の挿しやうもありません。そして私等はその年方々の取引先から贈られました団扇の中で一番気に入つたのをしまつて置いたそれを持つて、新しい下駄を穿《は》いて門《かど》へ出ます。何方《どちら》を向いても桟敷欄干《さじきてすり》に緋毛氈の掛けられた大通りは、昨日《きのふ》と同じ道であるとも思はれないのでした。友も連立つてまた其処《そこ》此処《ここ》の友の家を訪ねる私等の得意さは、天へも上《のぼ》つた程なのです。正月から待ちに待つた日が来たのだからと、心の中では云ふものがありました。私等は時々家を覗きに来ます。それは余所《よそ》からのお客が、もう幾人殖えたかと見るのが楽みなのです。四五時頃には、もう大鳥さんの太鼓の音が、どん、どおん、と南の方に聞え出します。祭列は四町程で尽きます。続いて神輿も通ります。全堺の町が湧き立つやうな騒ぎになるのは、この時から後《のち》なのです。いよいよ大鳥さんの渡御が済んで、人々は真実《ほんたう》のお祓の宵宮の心もちにこの時からなるからです。誰も眠る者などはないと云ふのはこの晩のことでした。家の中には幾十となく燭台が点《とも》されますが、外を通る人々の手に手にした灯《ひ》の明りの方が、更に幾倍した明さを見せて居ました。魚の夜市が初まると云ふので、誰も皆浜辺の方を向いて歩いて行くのです。私の家《うち》のお客様は、皆その夜市を見に行きます。私等は翌朝の住吉|詣《まう》での用意をさせられます。汽車があつても祭の各町を眺めて通るのが面白いために、住吉までを車で行くのが多いのでした。夜明の社《やしろ》の御灯《み
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