花で、四分通りの地が薄紅《うすべに》につぶされて居ました。母は舞扇が買はれる度に、扇の上に切地《きれぢ》で縁を附けるのが好きでした。好きと云ふよりもせねばならないこととして母はさうしたのです。扇が畳目《たゝみめ》から早く切れて破扇《やれあふぎ》になるのを惜んだのです。けれどその体裁は極めてよくないものでした。扇を襟《えり》の間にさした時、私の扇は他人の三倍もかさがありました。銀地の扇に母の附けた縁は紫のめりんすでした。私が生地骨《きぢぼね》で赤地の扇に金銀の箔の絵を置いたのを持つて居たこともありました。絵は御簾《みす》にそれも桜で、裏に蝶が二つ白抜きで附いて居ました。それには桃色の縁がとられてました。桔梗《ききやう》の花の扇は大阪の誰かから貰つた物でした。
「かうして縁を取りやはるとよう持つんだつせ、この嬢やんのお母《かあ》はんの新案だつせ。」
 お師匠さんは私の扇を弟子入に来る子の母親などに開いて見せたりしました。私はそれを恥しく思ひました。
 師匠の家のさらへ講に私が踊ることになつたのは「流しの枝」と云ふ曲でした。私は黒地の友染《いうぜん》の着物を着て出ました。模様の中に赤い巴《ともゑ》のあつたことを覚えて居ます。丁度《ちやうど》その日に私の家ではお祖母《ばあ》さんが報恩講《ほうおんかう》と云ふ仏事を催して多勢の客を招いて居ました。私はそれを余所《よそ》にして踊の場へ行くのが厭《いや》だつたのでした。私は楽屋でお膳のないのを悲みながら、煮魚のむしつたので夕飯を食べさせられました。この時も大勢の弟子の中でお師匠さんは私を一番大事にしてくれました。踊の済んだ時に、もうこれでいゝと思つた心持と、地方《ぢかた》の座を背にして、扇を膝に当てながら歌の起るのを待つて居た記憶はありますが、その間の気分などは皆忘れてしまひました。
 お師匠さんはお酒が好きでしたが、そんなことが病の原因《もと》になつて、死んでしまはれたのではないでせうか。

屏風と障子

 西洋好《せいやうずき》の私の父は西洋から来た石版画《せきばんゑ》で屏風が作らせてありました。私はその絵の中で一番端にはられた、青い服に赤いネクタイをした子供の泣いて居る絵がどんなに嫌ひだつたか知れません。これは阿呆《あはう》な子で、学校へ行くのが厭だと云つて居るのですと老婢《らうひ》はよく私に教へました。さう云はれます度に私
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