した。私が悪いことと知りながらした罪に就《つ》いて、また可《か》なり大きい後悔をしないでは居られませんでした。お歌ちやんに詫《あやま》りますと、
「そんなこと云ひなはらんでもええ。」
と云つて私の肩を撫でてくれました。ある日姉が、
「お歌ちやんが死にやはつた。」
と私に話しました。悲しく思つたに違ひありませんが、その時の心持などはよく覚えません。お歌ちやんは、十歳《とを》だつたと云ふことです。
「薄倖《ふしあはせ》なお歌ちやん。」
「賢い子やつた。」
 誰も皆かう云つてました。お歌ちやんが居なくなつてから、私はどうしてもお照さんや茂江さんの仲間へ入つて遊んで貰はなければなりませんでした。その中で意地悪でない人は、私と同年《おないどし》のより江さんだけでした。


私の生ひ立ち 三 お師匠さん/屏風と障子/西瓜燈籠

お師匠さん

 藤間《ふぢま》のお師匠さんは私の家の貸家《かしや》に居ました。その隣には私の母の両親が隠居をして居ました。私はそれから間もなく死別れたその母方の祖父の顔は、唯《たゞ》白髪《しらが》を長くして後撫《うしろな》でにした頭つきと、中風《ちゆうぶ》になつて居たために何時《いつ》も杖を突いて居たその腰つき位が記憶にあるだけですが、お師匠さんの顔ははつきりと覚えて居ます。大きい目や、油ぎつたやうな色をした広い額や、薄い髪の生際《はえぎは》やは、今も電車の中などで類似の顔に逢ふと思ひ出されるのです。私はお師匠さんに何年程|踊《をどり》を習つて居たのでせう、それとも幾月と云ふ程だつたのでせうか。舞扇《まひあふぎ》を使ひ壊して新しく買ふことはかなり幾度もありました。私の大きくなつてからはありませんでしたが、その頃舞扇を売つて居た家の店のことなども私はよく覚えて居ます。新しくて美しい飾りのしてある店でした。私が扇屋へ行く使《つかひ》の丁稚《でつち》に随《つ》いて行つた時、丁稚の渡す買物帳を其処《そこ》の手代《てだい》が後《うしろ》の帳場へ投げました。そしてかちかちと音をさせて扇箱から出した五六本の扇が私の丁稚に渡されました。私はその扇が母の前へ持つて来られて、開いて見せて貰ふのがどんなに楽みだつたか知れません。私は稽古|朋輩《ほうばい》の持つて居るやうな塗骨《ぬりぼね》の扇が欲しいと心に願つて居たのでした。私はさうして塗骨の銀の扇の持主になりました。絵は桜の
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