午後
與謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)先刻《さつき》
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(例)[#「。」は底本では「、」]
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二人は先刻《さつき》クリシイの通で中食して帰つて来てからまだ一言も言葉を交さない。女は暖炉《ストオブ》の上の棚の心覚えのある雑誌の下から郵船会社の発船日表を出した。さうして長椅子にべたりと腰を下して、手先だけを忙しさうに動して日表を拡げた。何時の昔から暗記して知り切つたものを、もとから本気で読まうなどと思つて居るのではない。男の注意をそれへ引いて、それから云ひ掛りをつけて喧嘩が初めたいのであつた。喧嘩と云つても勝つに決つた喧嘩で、その後で泣く、ヒステリイを起す、男をおろおろさせる、思つて見ればそれも度々しては面白くもない事に違ひないのである、もう飽きてしまつた慰み事に過ぎないのであるが、じつとして居て故郷恋しさに頭を暗くされ続けにさせられて居るよりはほんの少しばかり増しだと思ふのであらう。寝台の足の方に附けて置いた机に倚つて居る男に聞える程の
『あ、あ。』
と云ふ吐息を女はした。
『どうしたの。』
男は顔を妻に向けた。
『あ、あ。』
今度は甘えたやうな吐息が女の口から出て、そして媚びる目附で男を見た。帰りたければ帰れば好いぢやないかと一寸強く威された時、一先づ負けて出る何時ものそれが、間違つて一足先きに出たのだと女は自身の様子に気がついた。
『淋しいのね。』
『ふむ。』
と云つたまま男はまた書物の上に目を落した。
『煙草を頂戴。』
『さあ。』
男は藤色のルバンの箱を左の手で持つて出した。
『厭、火を附けてよ。』
舌打ちをしながらルバンを一本出して口に銜へて、手元にあつた燐寸の大箱から正臙脂色のじくに黄な薬が附けてある花の蘂のやうな燐寸を一本出して擦つた。女は黙つて見て居る。火を附けた煙草を男は無意識に其儘飲んでまた本に読入つた。女はそつと立つてルバンの箱と燐寸とを盗むやうに長椅子の上に取つて来た。
『上げやう。』
気の附いた男が煙草を口から取つて見せるのを
『いいのよ。』
首を振つて女は見せた。
『失敬した。』
『あんなことを云つて、いいんですよ。』
『おまへ昨日あたりからおとなしくなつたね。』
と云つて男は本を下向けた。
『さう。』
女の目には涙が
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