あ君もひどく怒《おこ》られないで済んだのだね。』
河合はをかしさうに笑つた。
『馬鹿な。』
男は机の引き出しから葉巻の箱を出して、
『これをやり給へ。』
河合の傍へ置いた。
『うん。』
河合が一本撮んで指で先を取つて居る時、女も手を出して一本取つた。そして手を伸して机の上のナイフを取つて端を切つて男に渡した。此頃は人の前で態とこんなことをして見せたがる癖の出来た女を病的になつて居るからだと男は見て居た。
『何も持つて居やあしないぢやないか。』
河合は両手を拡げて見せた。
『二十日かい、今日は。』
『さうかね。』
男は女を見て云つた。
『さうですわ。』
『驚いたらう。当月は何一枚書いて居やあしないよ。』
河合は態とらしい元気好い声で云つた。
『驚きはしないよ。君のこつたもの。』
『ふ、ふ。』
河合は首をすくめて笑つた。
『俺は馬鹿ぢやないから何も出来やあしない、出来やあしない。』
『困つた人だね。』
『俺はもう二百フランしか持つて居やあしないよ。』
『二百フランは真実《ほんとう》にあるのかしら。』
『怪しいものだね。』
河合が笑つて云つた。
『僕の細君を珈琲店《キヤツフエ》から追ひ帰しても仕方のないわけだね。』
『河合さんは綺麗な人を前に置いて見るだけでいいんですわね。』
と女が云つた。
『やむをえずですよ。』
『さうだとも。』
と男が云ふ。
『おい、カンキナでも河合君にお上げよ。そしておまへもそんな所に居ずと椅子を持つておいでよ。』
男に云はれて
『え、え。』
と女は足を床に附けて立たうとした。戸口に人の来たけはひを聞いて、男は
『どなた。』
と云つた。愛嬌を目に見せたブランシユが中を覗いて、客のあるのを見て男を小手招ぎして外へ呼び出した。女は机を河合の方へ少し寄せて、出して来たカンキナの瓶とコツプを置いた。
『おかみさんはいくつですか。』
『さあ、旦那様より二つ上だとか云つてましたよ。』
黒味を帯びたカンキナが注ぎ余つて机掛の上に血のやうに零れた。
『あれやあ亭主ぢやない、男めかけだ。』
『そんなことはないんですよ。』
『あんまり男が可愛さうだもの。』
酒を半飲んだコツプを持つた儘河合は笑つて居る。
『おかみさんは二十貫位あるでせうね。』
『そんなこと、背が低いし、それに唯ぶくぶくして居るだけですもの。』
男が入つて来る後からブラ
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