ぐに出て行けといい放った。今日まで如何なる難題にも、邪推にも、悪罵にも、あてこすりにも十二分に堪えていた温良な嫁も、むざむざ良人との愛を割《さ》かれるこの不法と苛酷に対して、思わず自制の箍《たが》を逸《はず》してかッと[#「かッと」に傍点]逆上した。たとい嫁の血族に精神病の系統のあることが後に公判廷で立証されたにしても、姑の不法な言いがかりが専擅《せんせん》苛酷な夫婦の離別に及ばなかったならなおこの逆上はしなかったであろう。またあるいは無情な離別を強《し》いられたにしても、嫁の体質が平生の生理状態であったなら恐らくなおこの逆上はしなかったであろう。しかし不幸にも若い嫁は病身である上に月経時であった。逆上すると同時に偶《たまた》ま手近にあった刃物を取って姑に投げ附けた。積極的に斬《き》ろうとするのでなく、勿論殺意があるのでなく、手当り次第に投げ附けた。それは猛烈なヒステリイの発作であった。姑は微《かす》かなかすり疵《きず》を負って逃げ出した。こうして意外な悲劇が突発し、嫁が姑を刺したという稀有な故殺未遂犯が成り立った。
ヒステリイは今日までの所、多数の婦人の或時期(月経時、妊娠時、分娩後、子宮病時)や或境遇(久しい間の独身、異常な災厄)に伴う共通の発作症である。それに強烈なのと微弱なのとあり、また遺伝から来るのと特発するのとあるが、それが或事を誘因として遽《にわ》かに迫って来る時には、人は意識の統一を失って自分で自分が制し切れなくなるものである。私は自身に精神病者の血を引いているし、父が卒中で斃《たお》れたほどの大酒家であったので、自然に病的な素質を持っていて、或時期に往往はげしいヒステリイに襲われることがあるから、その若い妻が逆上して刃物を投げ附けたという心理を十分に想像することが出来るのである。投げた物が偶《たまた》ま刃物であったために大それた刃傷沙汰になったが、ヒステリイの不可抗力に襲われたその時の気分は、何でもいいから手当り次第に投げ散して鬱積《うっせき》した心の蒸汽を狂的に洩《もら》さずにはいられないのである。そしてその不可抗力に襲われて無茶苦茶なことをしてしまった後の甚《はなはだ》しい悔恨と不快さはこれを経験しない人に到底理解の出来そうにないことである。意識の自制を失った際とはいえ、姑に刃物を投げ附けて負傷させたような結果を作ったのであるから、その瞬時の後に自己に返った若い妻が教育ある婦人だけにその悔恨が心を噛《か》んだことも異常であったに違いない。法廷において被告が誠心誠意|懺悔《ざんげ》の涙に咽《むせ》んだというのは同情されることである。
その動機に情状の酌量すべき所があっても、その事実が法文に触れているのであるから犯罪人として処刑されるのはやむをえない。殊に在来の道徳や習慣をその不用な部分までも背景にしている日本の法律では、嫁が姑を刺したという表面の大それた事実を重く見るので情状酌量の余地がない。それでこの犯罪は八年の懲役に処せられ、執行猶予の沙汰もなかったが、宣告の際に物優しい判事は獄則を恪守《かくしゅ》して刑期の半《なかば》を過したなら仮出獄の恩典に浴することも出来るということを告げたということである。私はこの刑罰の裁量が妥当であるかどうかを知らない。とにかくこうして某工学士一家の傷《いた》ましい悲劇は一段落が附こうとしているのである。しかし私はこの事件を切掛《きっかけ》にして更にいろいろの感想が胸に浮ぶ。
同じ悲劇の種は、姑と嫁のある日本の家庭の大多数に伏在している。姑が嫁を愛するというような事は昔の清少納言《せいしょうなごん》も珍しい物の中に引いている通りむしろ例外であって、「あなたは善い姑をお持ちになってお仕合せです」と嫁の友人から祝を述べるほどのことである。固《もと》より姑根性には種種《いろいろ》あって某工学士の母の実際はどうであるか知らないが、最も極端な例に引かれる残忍な姑さえ決して世間に珍しくはないのであるから、それ以外の、あるいは悪性、あるいは不良な程度の姑は無数に散在している。官吏や被傭人となって他郷に生活している若夫婦の中には父母と別居している者が多く、それらは直接に姑の干渉を受けないであろうが、しかし某工学士夫婦のように横浜と神戸とに別居していてすら前述のような惨事を引起したのであるから、如何に遠く離れて住んでいても聡明な愛情を欠いた姑に対する嫁の気兼《きがね》苦労は多少にかかわらず附帯しているのである。まして姑と一所に定住している大多数の嫁がそれらの姑の下にあるいは干渉され、あるいは苛《いじ》められ、あるいは意地悪く一分《いちぶ》だめしに精神的に虐殺されつつあるのは言うまでもない。
私は自分の息子《むすこ》のように嫁を愛し、あるいは蔭に廻って嫁を弁護するほどの美質を持った理想
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