姑と嫁について
与謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)苛酷《かこく》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)誠心誠意|懺悔《ざんげ》の涙
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「あてこすり」に傍点]
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或会社の技師をしている工学士某氏の妻が自分に対する苛酷《かこく》を極めた処置に堪えかねて姑を刺したという故殺《こさつ》未遂犯が近頃公判に附せられたので、その事件の真相が諸新聞に現れた。嫁が姑を刃傷《にんじょう》したということは稀有《けう》な事件である。無教育な階級の婦人間においてさえ類例を見出しがたいことであるのに、工学士の妻として多少の教育もあり、女優として立とうと決心していたほど新代の芸術に対する渇仰《かつごう》もある婦人が、こういう惨事を引起すに至ったについては何か特別な理由がなくてはならない。私は諸新聞の態度が初めから一概に被告を憎んで掛らずに、力《つと》めて細かに事件の真実を伝えようとし、その結果『東京朝日』記者のように特に被告に対して同情のある報道をされたことを、被告と同じ女性の一人として感謝する者である。
新聞紙の伝うる所に由《よ》れば、姑という人は明治以前の思想をそのままに墨守して移ることを知らず、現代の教育を受けた若い嫁の心理に大した同感もなく、かえって断えず反感を持って対し、二言目には家風を楯《たて》に取り、自分の旧式な思想を無上の権威として嫁の個性を蹂躙《じゅうりん》し圧倒することを何とも思わず、聞き苦しい干渉と邪推と、悪罵《あくば》と、あてこすり[#「あてこすり」に傍点]とを以て嫁を苛《いじ》めて悔いぬような、世にいう姑根性をかなり多く備えた婦人であるらしい。私は幼い時から私の郷里などにそういう無智な姑の少くない事を見聞しており、また一般に温厚な嫁ほどそういう姑の下にあって人の知らない多大の苦痛を忍んでいることを知っているので、姑に対する新聞紙の報道を誇張だとは思わない。
また妻という人は新聞紙に由れば普通の教育もあり、常識もあり、良人《おっと》との仲も睦《むつ》まじく、所帯持も好《よ》く、快濶《かいかつ》ではないが優しい中に熱烈な所のある婦人で、芸術上の希望を満たしたいために女優として立つに至ったのも良人との相談の上であって、夫婦の間に決してそれが突飛な問題でもお転婆な行為でもなかったのである。これは今日の女子教育の程度から見て工学士の妻として恥《はずか》しからぬ婦人であることは誰も同意するであろう。普通ならば学士の妻となったことに甘んじて尋常な一生を送る若い婦人が多い世の中に、更に物議の多い女優となって新しい芸術に何ほどかの貢献をしようとする熱心と勇気とを思うと、むしろ多数の学士の妻の中にあって得やすからぬ健気《けなげ》な婦人の一人であるといってもよい。
若い夫婦は良人の任地である横浜に住み、老父母たちは神戸に住んでいたが、姑はおりおり夫婦の家に来て滞在しながら良人の留守に嫁に小言をいい、良人に対しても嫁について讒訴《ざんそ》とも見るべきことを言うのであった。それについて若い妻は日本の一般の女性が姑に捧《ささ》げる限りのあらゆる忍従の態度を取って、少しもそれに反抗する言動を示さなかった。新旧思想の過渡期に生れたあわれな若い妻は、姑の無情非理を知りつつ出来るだけ忍従の態度を取る外に賢い孝養の法がなかった。
ここに私の遺憾に思うのは――むしろ攻撃したく思うのは――その良人たる工学士某氏の思慮の足りないことである。なぜに一人前の教育ある紳士がその母の旧思想を説破し、その苛酷な干渉を諫止《かんし》して、夫婦の間の生活は専ら夫婦の間で決すべきものであることを宣明しなかったのであろう。母を尊敬し併せて妻を愛重する文明男子がこの際に取るべき手段は、誠意ある諫諍《かんそう》を敢てして、母を時代錯誤から救い出し、現代に適した賢い母たり新しい母たらしめる外にないではないか。子としても良人としても確かなかつ周到な思慮を欠いて甚だ煮え切らぬ態度を取っていたために、母の恥を世に曝《さら》し、妻を罪人たらしめ、自分自身を不幸に導くような悲惨な結果になってしまった。私は良人たる人さえ首鼠両端《しゅそりょうたん》でなかったら、この悲劇の運命は多分避け得られたのではないかと思って返すがえすも惜まれるのである。
さて嫁が姑を刺すという悲劇の突発した時には姑が夫婦の家に滞在していた。それは良人の不同意にかかわらず家風に合わぬ嫁は姑の権威で離縁させるといってその離縁を実行するためにわざわざ神戸から出掛けて来たのであった。そして良人の留守に姑は散々の悪態を吐《つ》いて乱暴にも肺を病んでいる嫁をいびり出そうとした。恐ろしい権幕で今から直
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