もおできにならなかった。
夜はふけにふけてゆく。初めから吠えかかった犬はそれなりも声も休めずに騒がしく啼《な》く。従者がそれを追いかけようとすると、山荘のほうでは弓の弦《つる》を鳴らし、荒武者の声で「火の用心」などと呼ぶ。落ち着かぬお心から帰ろうとあそばしながらも、宮のお心は非常に悲しかった。
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「いづくにか身をば捨てんとしら雲のかからぬ山もなく泣くぞ行く
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ではもう別れて行こう」
とお言いになり、侍従をお帰しになった。宮の御様子は艶《えん》で、夜中の霧に湿ったお召し物から立つ香はたとえようもなく感じのいいものであった。
侍従は泣く泣く帰って来た。右近が宮のおいでをお断わり申し上げたことを言ってから浮舟はいよいよ煩悶を深くして寝ていたが、侍従のはいって来て、外での様子を話すのに対して返辞はしないながら枕《まくら》も浮き上がらんばかりの涙の出るのを、この人がどう思うかとまた恥じられもした。
翌朝も泣きはらした目を思うと浮舟は起きるのがつらくていつまでも寝ていた。
起きてからははかなそうな姿で、しかも仏へ敬意を表する型として帯の端を肩から後ろ向きに掛けなどしながら浮舟の姫君は経を読んでいた。親よりも先に死ぬ罪が許されたいためである。宮のお描《か》きになった絵を出してながめているうちに、その時の手つき、美しかったお顔などがまだ近い所にあるように見えてくる。そんなにも心から離れない方であるから、最後にひと言のお話もできなかった昨夜のことは悲しくてならないはずである。初めから同じように永久愛して変わるまいと言っていた大将も、自分が死んだあとではどんなに歎くことであろうと思い、その人への恋を忘れて心の変わったために死んだと自殺後に言う人もあろうことの想像されるのも恥ずかしかったが、軽薄な女と思われ、宮のほうへ奔《はし》ったと大将に思われるよりはまだそのほうがいいと思い続けて、
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歎きわび身をば捨つとも亡《な》きかげに浮き名流さんことをこそ思へ
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と詠《よ》まれもした。母も恋しかった。平生は思い出すこともない異父の弟妹の醜い顔をした人たちも恋しかった。二条の院の女王《にょうおう》を思い出してみても、恋しい。またそのほかにももう一度だけ逢いたいと思われるのが多い。女房た
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