棹《さを》の雫《しづく》に袖《そで》ぞ濡《ぬ》れぬる

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寂しいながめばかりをしておいでになるのでしょう。
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 そしてこれを侍に持たせてやった。その男は寒そうに鳥肌《とりはだ》になった顔で、女王の居間のほうへ客の手紙を届けに来た。返事を書く紙は香の焚《た》きこめたものでなければと思いながら、それよりもまず早くせねばと、

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さしかへる宇治の川長《かはをさ》朝夕の雫や袖をくたしはつらん

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身も浮かぶほどの涙でございます。
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 大姫君は美しい字でこう書いた。こんなことも皆ととのった人であると薫は思い、心が多く残るのであったが、
「お車が京からまいりました」
 と言って、供の者が促し立てるので、薫は侍を呼んで、
「宮様がお帰りになりますころにまた必ずまいります」
 などと言っていた。濡れた衣服は皆この侍に与えてしまった。そして取り寄せた直衣《のうし》に薫は着がえたのであった。
 薫は帰ってからも宇治の老女のした話が気にかかった。また姫君たちの想像した以上におおような、柔らかい感じのする美しい人であった面影が目に残って、捨て去ることは容易でない人生であることが心弱く思われもした。薫は消息を宇治の姫君へ書くことにした。それは恋の手紙というふうでもなかった。白い厚い色紙に、筆を撰《えら》んで美しく書いた。
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突然に伺った者が多く語り過ぎると思召《おぼしめ》さないかと心がひけまして、何分の一もお話ができませんで帰りましたのは苦しいことでした。ちょっと申し上げましたように、今後はお居間の御簾の前へ御安心くだすって私の座をお与えください。お山ごもりがいつで終わりますかを承りたく思います。そのころ上がりまして、宮様にお目にかかれませんでした心を慰めたく存じております。
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 などとまじめに言ってあるのを、使いに出す左近将監《さこんのじょう》である人に渡して、あの老女に逢《あ》って届けるようにと薫は命じた。宿直の侍が寒そうな姿であちこちと用に歩きまわったのを哀れに思い出して、大きな重詰めの料理などを幾つも作らせて贈るのであった。そのまた宮のおこもりになった寺のほうへも薫は贈り物を差し上げた。山ごもりの僧たちも寒さに向かう時節である
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