のだった。
「何も私がそうでなければならぬときめたことではなく、ずいぶん躊躇《ちゅうちょ》をしたことなのだがね。お気の毒に存じ上げるほどぜひにと院の陛下が御懇望あそばすのだもの、後援者のない人は宮中にはいってからのみじめさを思って、はげしい競争などはもうだれもなさらないような院の後宮へ奉ったのですよ。だれも皆よくないことであれば忠告をしてくれればいいのだけれど、その時は黙っていて、今になると右大臣さんなども私の処置が悪かったように、それとなくおっしゃるのだから苦しくてなりませんよ。皆宿命なのですよ」
 と穏やかに尚侍は言っていた。心も格別騒いではいないのである。
「その前生の因縁というものは、目に見えないものですから、お上がああ仰せられる時に、あの妹は前生からの約束がありましてなどという弁解は申し上げられないではありませんか。中宮《ちゅうぐう》がいらっしゃるからと御遠慮をなすっても、院の御所には叔母《おば》様の女御さんがおいでになったではありませんか。世話をしてやろうとか、何とか、言っていらっしゃって御了解があるようでも、いつまでそれが続くことですかね、私は見ていましょう。御所には中宮がおいでになるからって、後宮がほかにだれも侍していないでしょうか。君に仕えたてまつることでは義理とか遠慮とかをだれも超越してしまうことができると言って、宮仕えをおもしろいものに昔から言うのではありませんか。院の女御が感情を害されるようなことが起こってきて、世間でいろんな噂《うわさ》をされるようになれば、初めからこちらのしたことが間違いだったとだれにも思われるでしょう」
 などとも中将は言った。兄弟がまたいっしょになっても非難するのを玉鬘《たまかずら》夫人は苦しく思った。
 その新女御を院が御|寵愛《ちょうあい》あそばすことは月日とともに深くなった。七月からは妊娠をした。悪阻《つわり》に悩んでいる新女御の姿もまた美しい。世の中の男が騒いだのはもっともである、これほどの人を話だけでも無関心で聞いておられるわけはないのであると思われた。御|愛姫《あいき》を慰めようと思召して、音楽の遊びをその御殿でおさせになることが多くて、院は源侍従をも近くへお招きになるので、その人の琴の音《ね》などを薫は聞くことができた。この侍従が正月に「梅が枝」を歌いながら訪《たず》ねて行った時に、合わせて和琴を弾《ひ》いた中将の君も常にそのお役を命ぜられていた。薫は弾き手のだれであるかを音に知って、その夜の追想が引き出されもした。
 翌年の正月には男踏歌《おとことうか》があった。殿上の若い役人の中で音楽のたしなみのある人は多かったが、その中でもすぐれた者としての選にはいって薫の侍従は右の歌手の頭《とう》になった。あの蔵人《くろうど》少将は奏楽者の中にはいっていた。初春の十四日の明るい月夜に、踏歌の人たちは御所と冷泉《れいぜい》院へまいった。叔母《おば》の女御も新女御も見物席を賜わって見物した。親王がた、高官たちも同時に院へ伺候した。源右大臣と、その舅家《きゅうけ》の太政大臣の二系統の人たち以外にはなやかなきれいな人はないように見える夜である。宮中で行なった時よりも、院の御所の踏歌を晴れがましいことに思って、人々は細心な用意を見せて舞った。また奏し合った中でも蔵人少将は、新女御が見ておられるであろうと思って興奮をおさえることができないのである。美しい物でもないこの夜の綿の花も、挿頭《かざ》す若|公達《きんだち》に引き立てられて見えた。姿も声も皆よかった。「竹河」を歌って階《きざはし》のもとへ歩み寄る時、少将の心にもまた去年の一月の夜の記憶がよみがえってきたために、粗相も起こしかねないほどの衝動を受けて涙ぐんでいた。后《きさき》の宮の御前で踏歌がさらにあるため、院もまたそちらへおいでになって御覧になるのであった。深更になるにしたがって澄み渡った月は昼より明るく照らすので、御簾《みす》の中からどう見られているかということに上気して、少将は院のお庭を歩くのでなく漂って行く気持ちでまいった。杯を受けて飲むことが少ないと言って、自身一人が責められることになるのも恥ずかしかった。
 踏歌の人たちは夜通しあちらこちらとまわったために翌日は疲労して寝ていた。薫侍従に院からのお召があった。
「苦しいことだ。しばらく休養したいのに」
 と言いながら伺候した。御所で踏歌を御覧になった様子などを院はお尋ねになるのであった。
「歌頭《かとう》は今まで年長者がするものなのだが、それに選ばれるほど認められているのだと思って満足した」
 と仰せられてかわいく思召す御さまである。「万春楽《ばんしゅんらく》」(踏歌の地に弾《ひ》く曲)の譜をお口にあそばしながら新女御の御殿へおいでになる院のお供を薫はした。前夜の見物に
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