くまでも美しいのを、若女房などは悲しさも少し紛れたように興奮して、帰って行こうとする大将の姿にながめ入った。前の庭の桜の美しいのをながめて、「深草の野べの桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」と口へ出てくる大将であったが、尼姿を言うようなことはここで言うべきでないと遠慮がされて、「春ごとに花の盛りはありなめど逢《あ》ひ見んことは命なりける」と歌って、

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時しあれば変はらぬ色に匂《にほ》ひけり片枝《かたえ》折れたる宿の桜も
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 と自然なふうに口ずさんで、花の下に立ちどまっていると、御息所はすぐに、

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この春は柳の芽にぞ玉は貫《ぬ》く咲き散る花の行くへ知らねば
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 という返しを書いてきた。高い才識の見えるほどの人ではないが、前には才女と言われた更衣《こうい》であったのを思って、評判どおりに気のきいた人であると大将は思った。
 大将はそれから太政大臣家を訪問したが、子息たちの幾人かが出て、こちらへと案内をしたので、大臣の離れ座敷のほうへ行っては無遠慮でないかと躊躇《ちゅうちょ》をしながらはいって行って舅《しゅうと》に逢った。いつまでも端麗な大臣の顔も非常に痩《や》せ細ってしまって、髭《ひげ》なども剃《そ》らせないで伸びて、親を失った時に比べて子を死なせたあとの大臣は衰え方がひどいと世間で言われるとおりに見えた。顔を見た瞬間から悲しくなって流れ出した涙がいつまでも続いて流れてくるのを恥ずかしく思って大将は押し隠しながら、一条の宮をお訪《たず》ねして来た話などをした。初めからしめっぽいふうであった大臣はさらに多くの涙を見せて、故人の話を婿とし合った。懐紙《ふところがみ》へ一条の御息所が書いて渡した歌を大将が見せようとすると、
「目もよく見えないが」
 と涙の目をしばたたきながらそれを読もうとした。見栄《みえ》も思わず目のためにしかめている顔は、平生の誇りに輝いた時の面影を失って見苦しかった。歌は平凡なものであったが、「玉は貫《ぬ》く」ということばは大臣自身にも痛切に感じていることであったから、相|憐《あわれ》む涙が流れ出るふうで、すぐにまた言うのであった。
「あなたのお母さんが亡《な》くなられた時に、私はこれほど悲しいことはないと思ったが、女の人は世間と交渉を持つことが少ないために、不意にいろんな言葉が自分の痛い傷にさわるというようなこともなくて、今度のような苦しみをそのあとで感じることはなかったものです。賢くもありませんでしたが、朝廷の御恩を受けて地位を得てゆくにしたがって彼の庇護を受けようとするものが次第に多くなっていたのですから、彼の死に失望をした者もずいぶんあるでしょう。しかし親である私は、そんなふうに勢力を得ていたのに惜しいとか、官位がどうなっていたかというようなことではなくて、平凡な息子《むすこ》である裸の彼が堪えがたく恋しいのです。どんなことが私のこの悲しみを慰めるようになるのでしょう。それはありうることとは思われません」
 大臣は空間に向いて歎息《たんそく》をした。夕方の雲が鈍《にび》色にかすんで、桜の散ったあとの梢《こずえ》にもこの時はじめて大臣は気づいたくらいである。
 御息所の歌の紙へ、

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このもとの雪に濡《ぬ》れつつ逆《さかし》まに霞《かすみ》の衣着たる春かな
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 と書いた。大将も、

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亡《な》き人も思はざりけん打ち捨てて夕べの霞君着たれとは
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 と書く。左大弁も、

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恨めしや霞の衣たれ着よと春よりさきに花の散りけん
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 と書いた。
 大納言の法事は非常に盛んなものであった。左大将夫人が兄のためにささげ物をしたのはいうまでもないが、大将自身も真心のこもったささげ物をしたし、誦経《ずきょう》の寄付などにも並み並みならぬ友情を示した。
 左大将は一条の宮へ始終見舞いを言い送っていた。四月の初夏の空はどことなくさわやかで、あらゆる木立ちが一色の緑をつくっているのも、寂しい家ではすべて心細いことに見られて、宮の御母子《おんぼし》が悲しい退屈を覚えておいでになるころにまた左大将が来訪した。植え込みの草などもすでに青く伸びて、敷き砂の間々には強い蓬《よもぎ》が広がりかえっていた。林泉に対する趣味を大納言は持っていて、美しくさせていたものであるが、そうした植え込みの灌木《かんぼく》類や花草の類もがさつに枝を伸ばすばかりになって、一むら薄《すすき》はその蔭《かげ》に鳴く秋の虫の音《ね》が今から想像されるほどはびこって見えるのも、大将の目には物哀れでしめっぽい気分がまず味わわれた。喪の
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