ましたが、一方では非常に思いやりのないことを自責しているのですから、これ以上の無礼はいたしません」
 こんな言葉をお聞きになることによって、宮は衛門督《えもんのかみ》であることをお悟りになった。非常に不愉快にお感じにもなったし、怖《おそ》ろしくもまた思召《おぼしめ》されもして少しのお返辞もあそばさない。
「あなた様がこうした冷ややかなお扱いをなさいますのはごもっともですが、しかしこんなことは世間に例のないことではないのでございますよ。あまりに御同情の欠けたふうをお見せになれば、私は情けなさに取り乱してどんなことをするかもしれません。かわいそうだとだけ言ってください。そのお言葉を聞いて私は立ち去ります」
 とも、手を変え品を変え宮のお心を動かそうとして説く衛門督であった。想像しただけでは非常な尊厳さが御身を包んでいて、目前で恋の言葉などは申し上げられないもののように思われ、熱情の一端だけをお知らせし、その他の無礼を犯すことなどは思いも寄らぬことにしていた督であったにかかわらず、それほど高貴な女性とも思われない、たぐいもない柔らかさと可憐《かれん》な美しさがすべてであるような方を目に見てからは、衛門督の欲望はおさえられぬものになり、どこへでも宮を盗み出して行って夫婦になり、自分もそれとともに世間を捨てよう、世間から捨てられてもよいと思うようになった。
 少し眠ったかと思うと衛門督は夢に自分の愛している猫《ねこ》の鳴いている声を聞いた。それは宮へお返ししようと思ってつれて来ていたのであったことを思い出して、よけいなことをしたものだと思った時に目がさめた。この時にはじめて衛門督は自身の行為を悟ったのである。が宮はあさましい過失をして罪に堕《お》ちたことで悲しみにおぼれておいでになるのを見て、
「こうなりましたことによりましても、前生の縁がどんなに深かったかを悟ってくださいませ。私の犯した罪ですが、私自身も知らぬ力がさせたのです」
 不意に猫が端を引き上げた御簾《みす》の中に宮のおいでになった春の夕べのことも衛門督《えもんのかみ》は言い出した。そんなことがこの悲しい罪に堕《お》ちる因をなしたのかと思召《おぼしめ》すと、宮は御自身の運命を悲しくばかり思召されるのであった。もう六条院にはお目にかかれないことをしてしまった自分であるとお思いになることは、非常に悲しく心細くて、子供らしくお泣きになるのを、もったいなくも憐《あわ》れにも思って、自分の悲しみと同時に恋人の悲しむのを見るのは堪えがたい気のする督であった。夜が明けていきそうなのであるが、帰って行けそうにも男は思われない。
「どうすればよいのでしょう。私を非常にお憎みになっていますから、もうこれきり逢《あ》ってくださらないことも想像されますが、ただ一言を聞かせてくださいませんか」
 宮はいろいろとこの男からお言われになるのもうるさく、苦しくて、ものなどは言おうとしてもお口へ出ない。
「何だか気味が悪くさえなりましたよ。こんな間柄というものがあるでしょうか」
 男は恨めしいふうである。
「私のお願いすることはだめなのでしょう。私は自殺してもいい気にもとからなっているのですが、やはりあなたに心が残って生きていましたものの、もうこれで今夜限りで死ぬ命になったかと思いますと、多少の悲しみはございますよ。少しでも私を愛してくださるお心ができましたら、これに命を代えるのだと満足して死ねます」
 と言って、衛門督は宮をお抱きして帳台を出た。隅《すみ》の室《ま》の屏風《びょうぶ》を引き拡《ひろ》げ蔭《かげ》を作っておいて、妻戸をあけると、渡殿《わたどの》の南の戸がまだ昨夜《ゆうべ》はいった時のままにあいてあるのを見つけ、渡殿の一室へ宮をおおろしした。まだ外は夜明け前のうす闇《やみ》であったが、ほのかにお顔を見ようとする心で、静かに格子をあげた。
「あまりにあなたが冷淡でいらっしゃるために、私の常識というものはすっかりなくされてしまいました。少し落ち着かせてやろうと思召すのでしたら、かわいそうだとだけのお言葉をかけてください」
 衛門督が威嚇《いかく》するように言うのを、宮は無礼だとお思いになって、何かとがめる言葉を口から出したく思召したが、ただ慄《ふる》えられるばかりで、どこまでも少女らしいお姿と見えた。ずんずん明るくなっていく。あわただしい気になっていながら、男は、
「理由のありそうな夢の話も申し上げたかったのですけれど、あくまで私をお憎みになりますのもお恨めしくてよしますが、どんなに深い因縁のある二人であるかをお悟りになることもあなたにあるでしょう」
 と言って出て行こうとする男の気持ちに、この初夏の朝も秋のもの悲しさに過ぎたものが覚えられた。

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おきて行く空も知られぬ明けぐ
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