冗費は国家のためお慎みになるようにと六条院からの御進言があっておできにならぬためにくやしく思召すばかりであった。
 十二月の二十日過ぎに中宮《ちゅうぐう》が宮中から退出しておいでになって、六条院の四十歳の残りの日のための祈祷《きとう》に、奈良《なら》の七大寺へ布四千反を頒《わか》ってお納めになった。また京の四十寺へ絹四百|疋《ぴき》を布施にあそばされた。養父の院の深い愛を受けながら、お報いすることは何一つできなかった自分とともに、御父の前皇太子、母|御息所《みやすどころ》の感謝しておられる志も、せめてこの際に現わしたいと中宮は思召したのであるが、宮中からの賀の御沙汰《ごさた》を院が御辞退されたあとであったから、大仰《おおぎょう》になることは皆おやめになった。
「四十の賀というものは、先例を考えますと、それがあったあとをなお長く生きていられる人は少ないのですから、今度は内輪のことにしてこの次の賀をしていただく場合にお志を受けましょう」
 と六条院は言っておいでになったのであるが、やはりこれは半公式の賀宴で派手《はで》になった。六条院の中宮のお住居《すまい》の町の寝殿が式場になっていて、前
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