》を持ってよこさせになりまして、仏前でお暇乞《いとまご》いにお弾きになりましたあとで、楽器を御堂《みどう》へ寄進されました。そのほかのいろいろな物も御堂へ御寄付なさいまして、余りの分をお弟子《でし》の六十幾人、それは親しくお仕えした人数ですが、それへお分けになり、なお残りました分を京の御財産へおつけになりました。いっさいをこんなふうに清算なさいまして深山《みやま》の雲霞《くもかすみ》の中に紛れておはいりになりましたあとのわれわれ弟子どもはどんなに悲しんでいるかしれません」
 と播磨《はりま》の僧は言った。これも少年侍として京からついて行った者で、今は老法師で主に取り残された悲哀を顔に見せている。仏の御弟子で堅い信仰を持ちながらこの人さえ主を失った歎《なげ》きから脱しうることができないのであるから、まして尼君の歎きは並み並みのことでなかった。
 明石《あかし》夫人はたいてい南の町のほうへばかり行っていたが、明石の使いが入道の手紙をもたらしたことを尼君が報らせて来たため、そっと北の町へ帰って来た。この人は自重していて少しのことによって軽々しく往来《ゆきき》することはしないのであるが、悲しいたよりがあったというので忍びやかに出て来たのである。見ると尼君は非常に悲しいふうをしてすわっていた。燈《ともしび》を近くへ寄せさせて夫人は手紙を読んでみると、自身からもとどめがたい涙が流れた。他人にとっては何でもないことも子としては忘れがたい思い出になる昔のことが多くて、常に恋しくばかり思われた父は、こうして自分たちから永久に去ったのかと思うと、どうしようもない深い悲しみに落ちるばかりであった。この夢の話によって、自分に不相応な未来を期待して、人並みの幸福を受けさせずに苦しめる父であるようにある時代の自分が恨んだのも、一つの夢を頼みにした父であったからであると、はじめて理解のできた気もした。少したって尼君は、
「あなたがあったために輝かしい光栄にも私は浴していますが、またあなたのためにどれほどの苦労を心でしたことか。たいしたことのない家の子ではあっても、生まれた京を捨てて田舎《いなか》へ行ったころも不運な私だと思われましたがね。あとになって生きながら別れなければならぬとは予想せずに、同じ蓮華《れんげ》の上へ生まれて行く時まで変わらぬ夫婦でいようとも互いに思って、愛の生活には満足して年月
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