た。院はまだ若い源氏の君とお見えになるのであった。四つの屏風《びょうぶ》には帝の御|筆蹟《ひっせき》が貼《は》られてあった。薄地の支那綾《しなあや》に高雅な下絵のあるものである。四季の彩色絵よりもこのお屏風はりっぱに見えた。帝の御字は輝くばかりおみごとで、目もくらむかと思いなしも添って思われた。置き物の台、弾《ひ》き物、吹き物の楽器は蔵人所《くろうどどころ》から給せられたのである。右大将の勢力も強大になっていたため今日の式のはなやかさはすぐれたものに思われた。四十匹の馬が左馬寮、右馬寮、六衛府《りくえふ》の官人らによって次々に引かれて出た。おそれ多いお贈り物である。そのうち夜になった。例の万歳楽、賀皇恩《がこうおん》などという舞を、形式的にだけ舞わせたあとで、お座敷の音楽のおもしろい場が開かれた。太政大臣という音楽の達者《たてもの》が臨場していることにだれもだれも興奮しているのである。琵琶《びわ》は例によって兵部卿《ひょうぶきょう》の宮、院は琴《きん》、太政大臣は和琴《わごん》であった。久しくお聞きにならぬせいか和琴の調べを絶妙のものとしてお聞きになる院は、御自身も琴を熱心にお弾《ひ》きあそばされたのである。いかなる時にも聞きえなかった妙音も出た。またも昔の話が出て、子息の縁組みその他のことで昔に増した濃い親戚《しんせき》関係を持つことにおなりになった二人は、睦《むつ》まじく酒杯をお重ねになった。おもしろさも頂天に達した気がされて、酔い泣きをされるのもこのかたがたであった。お贈り物には、すぐれた名器の和琴を一つ、それに大臣の好む高麗笛《こまぶえ》を添え、また紫檀《したん》の箱一つには唐本と日本の草書の書かれた本などを入れて、院は帰ろうとする大臣の車へお積ませになった。馬を院方の人が受け取った時に右馬寮の人々は高麗楽を奏した。六衛府の官人たちへの纏頭《てんとう》は大将が出した。質素に質素にとして目だつことはおやめになったのであるが、宮中、東宮、朱雀《すざく》院、后《きさい》の宮、このかたがたとの関係が深くて、自然にはなやかさの作られる六条院は、こんな際に最も光る家と見えた。院には大将だけがお一人息子で、ほかに男子のないことは寂しい気もされることであったが、その一人の子が万人にすぐれた器量を持ち、君主の御覚えがめでたく、幸運の人というにほかならぬことが証《あか》しされて
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