えて出て、纏頭品の箱から一つずつ出して皆へ頒《わか》った。白い纏頭の服を皆が肩にかけて山ぎわから池の岸を通って行くのをはるかに見ては鶴《つる》の列かと思われた。席上での音楽が始まっておもしろい夜の宴になった。楽器は東宮の御手から皆呈供されたのである。朱雀《すざく》院からお譲られになった琵琶《びわ》、帝《みかど》からお賜わりになった十三|絃《げん》の琴などは六条院のためにお馴染《なじみ》の深い音色《ねいろ》を出して、何につけても昔の宮廷がお思われになる方であったから、またさまざまの恋しい昔の夢をお描《か》かせした。入道の宮がおいでになったなら四十の御賀も自分が主催して行なったことであろう。今になっては何を志としてお見せすることができよう、すべて不可能なことになったと院は御|歎息《たんそく》をあそばした。女院をお失いになったことは何の上にも添う特殊な光の消えたことであると帝も寂しく思召すのであって、せめて六条院だけを最高の地位に据《す》えたいというお望みも実現されないことを始終残念に思召す帝であったが、今年は四十の賀に託して六条院へ行幸《みゆき》をあそばされたい思召しであった。しかしそれも冗費は国家のためお慎みになるようにと六条院からの御進言があっておできにならぬためにくやしく思召すばかりであった。
十二月の二十日過ぎに中宮《ちゅうぐう》が宮中から退出しておいでになって、六条院の四十歳の残りの日のための祈祷《きとう》に、奈良《なら》の七大寺へ布四千反を頒《わか》ってお納めになった。また京の四十寺へ絹四百|疋《ぴき》を布施にあそばされた。養父の院の深い愛を受けながら、お報いすることは何一つできなかった自分とともに、御父の前皇太子、母|御息所《みやすどころ》の感謝しておられる志も、せめてこの際に現わしたいと中宮は思召したのであるが、宮中からの賀の御沙汰《ごさた》を院が御辞退されたあとであったから、大仰《おおぎょう》になることは皆おやめになった。
「四十の賀というものは、先例を考えますと、それがあったあとをなお長く生きていられる人は少ないのですから、今度は内輪のことにしてこの次の賀をしていただく場合にお志を受けましょう」
と六条院は言っておいでになったのであるが、やはりこれは半公式の賀宴で派手《はで》になった。六条院の中宮のお住居《すまい》の町の寝殿が式場になっていて、前
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