されたものにしていくようなはなやかな時代であった。あまりよい身分でない更衣《こうい》などは多くも出ていなかった。中宮《ちゅうぐう》、弘徽殿《こきでん》の女御、この王女御、左大臣の娘の女御などが後宮の女性である。そのほかに中納言の娘と宰相の娘とが二人の更衣で侍していた。踏歌《とうか》は女御がたの所へ実家の人がたくさん見物に来ていた。これは御所の行事のうちでもおもしろいにぎやかなものであったから、見物の人たちも服装などに華奢《かしゃ》を競った。東宮の母君の女御も人に負けぬ派手《はで》な方であった。東宮はまだ御幼年であったから、そのほうの中心は母君の女御であった。御前《ごぜん》、中宮、朱雀《すざく》院へまわるのに夜が更《ふ》けるために、今度は六条院へ寄ることを源氏が辞退してあった。朱雀院から引き返して、東宮の御殿を二か所まわったころに夜が明けた。ほのぼのと白む朝ぼらけに、酔い乱れて「竹河《たけがわ》」を歌っている中に、内大臣の子息たちが四、五人もいた。それはことに声がよく容貌《ようぼう》がそろってすぐれていた。童形《どうぎょう》である八郎君《はちろうぎみ》は正妻から生まれた子で、非常に大事がられているのであったが、愛らしかった。大将の長男と並んでいるこの二人を尚侍も他人とは思えないで目がとどめられた。宮中の生活に馴《な》れた女御たちの曹司よりも、新しい尚侍の見物する御殿の様子のほうがはなやかで、同じような物ではあるが、女房の袖口《そでぐち》の重ねの色目も、ここのがすぐれたように公達《きんだち》は思った。尚侍自身も女房たちもこうした、悪いことが悪く見え、よいことはことによく見える御所の中の生活をしばらくは続けてみたいと思っていた。どちらでも纏頭《てんとう》に出すのは定《きま》った真綿であるが、それらなどにも尚侍のほうのはおもしろい意匠が加えられてあった。こちらはちょっと寄るだけの所なのであるが、はなやかな空気のうかがわれる曹司であったから、公達は晴れがましく思い、緊張した踏歌をした。饗応《きょうおう》の法則は越えないようにして、ことに手厚く演者はねぎらわれたのであった。それは大将の計らいであった。大将は禁中の詰め所にいて、終日尚侍の所へ、
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退出を今夜のことにしたいと思います。出仕した以上はなおとどまっていたいと、あなたが考えるであろう宮仕えというもの
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