にはただ気紛れですることのように良人《おっと》は言っていた。同じ女王ではあっても世間から重んぜられていることは自分と比較にならない人である。その人に良人の愛が移ってしまったなら自分はみじめであろう、と夫人は歎《なげ》かれた。さすがに第一の夫人として源氏の愛をほとんど一身に集めてきた人であったから、今になって心の満たされない取り扱いを受けることは、外へ対しても堪えがたいことであると夫人は思うのである。顧みられないというようなことはなくても、源氏が重んじる妻は他の人で、自分は少女時代から養ってきた、どんな薄遇をしても甘んじているはずの妻にすぎないことになるのであろうと、こんなことを思って夫人は煩悶《はんもん》しているが、たいしたことでないことはあまり感情を害しない程度の夫人の恨み言にもなって、それで源氏の恋愛行為が牽制《けんせい》されることにもなるのであったが、今度は夫人の心の底から恨めしく思うことであったから、何ともその問題に触れようとしない。外をながめて物思いを絶えずするのが源氏であって、御所の宿直《とのい》の夜が多くなり、役のようにして自宅ですることは手紙を書くことであった。噂に誤りがないらしいと夫人は思って、少しくらいは打ち明けて話してもよさそうなものであると、飽き足りなくばかり思った。
 冬の初めになって今年は神事がいっさい停止されていて寂しい。つれづれな源氏はまた五の宮を訪ねに行こうとした。雪もちらちらと降って艶《えん》な夕方に、少し着て柔らかになった小袖《こそで》になお薫物《たきもの》を多くしたり、化粧に時間を費やしたりして恋人を訪《と》おうとしている源氏であるから、それを見ていて気の弱い女性はどんな心持ちがするであろうと危《あや》ぶまれた。さすがに出かけの声をかけに源氏は夫人の所へ来た。
「女五の宮様が御病気でいらっしゃるからお見舞いに行って来ます」
 ちょっとすわってこう言う源氏のほうを、夫人は見ようともせずに姫君の相手をしていたが、不快な気持ちはよく見えた。
「始終このごろは機嫌《きげん》が悪いではありませんか、無理でないかもしれない。長くいっしょにいてはあなたに飽かれると思って、私は時々御所で宿直《とのい》をしたりしてみるのが、それでまたあなたは不愉快になるのですね」
「ほんとうに長く同じであるものは悲しい目を見ます」
 とだけ言って向こうを向いて寝てしまった女王を置いて出て行くことはつらいことに源氏は思いながらも、もう御訪問の報《しら》せを宮に申し上げたのちであったから、やむをえず二条の院を出た。こんな日も自分の上にめぐってくるのを知らずに、源氏を信頼して暮らしてきたと寂しい気持ちに夫人はなっていた。喪服の鈍《にび》色ではあるが濃淡の重なりの艶《えん》な源氏の姿が雪の光《あかり》でよく見えるのを、寝ながらのぞいていた夫人はこの姿を見ることも稀《まれ》な日になったらと思うと悲しかった。前駆も親しい者ばかりを選んであったが、
「参内する以外の外出はおっくうになった。桃園の女五《にょご》の宮《みや》様は寂しいお一人ぼっちなのだからね、式部卿《しきぶきょう》の宮がおいでになった間は私もお任せしてしまっていたが、今では私がたよりだとおっしゃるのでね、それもごもっともでお気の毒だから」
 などと、前駆を勤める人たちにも言いわけらしく源氏は言っていたが、
「りっぱな方だけれど、恋愛をおやめにならない点が傷だね。御家庭がそれで済むまいと心配だ」
 とそうした人たちも言っていた。
 桃園のお邸《やしき》は北側にある普通の人の出入りする門をはいるのは自重の足りないことに見られると思って、西の大門から人をやって案内を申し入れた。こんな天気になったから、先触れはあっても源氏は出かけて来ないであろうと宮は思っておいでになったのであるから、驚いて大門をおあけさせになるのであった。出て来た門番の侍が寒そうな姿で、背中がぞっとするというふうをして、門の扉をかたかたといわせているが、これ以外の侍はいないらしい。
「ひどく錠が錆《さ》びていてあきません」
 とこぼすのを、源氏は身に沁《し》んで聞いていた。宮のお若いころ、自身の生まれたころを源氏が考えてみるとそれはもう三十年の昔になる、物の錆びたことによって人間の古くなったことも思われる。それを知りながら仮の世の執着が離れず、人に心の惹《ひ》かれることのやむ時がない自分であると源氏は恥じた。

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いつのまに蓬《よもぎ》がもとと結ぼほれ雪ふる里と荒れし垣根《かきね》ぞ
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 源氏はこんなことを口ずさんでいた。やや長くかかって古い門の抵抗がやっと征服された。
 源氏はまず宮のお居間のほうで例のように話していたが、昔話の取りとめもないようなのが長く続いて源氏は眠くなるばかりであった。宮もあくびをあそばして、
「私は宵惑《よいまど》いなものですから、お話がもうできないのですよ」
 とお言いになったかと思うと、鼾《いびき》という源氏に馴染《なじみ》の少ない音が聞こえだしてきた。源氏は内心に喜びながら宮のお居間を辞して出ようとすると、また一人の老人らしい咳《せき》をしながら御簾《みす》ぎわに寄って来る人があった。
「もったいないことですが、ご存じのはずと思っておりますものの私の存在をとっくにお忘れになっていらっしゃるようでございますから、私のほうから、出てまいりました。院の陛下がお祖母《ばあ》さんとお言いになりました者でございますよ」
 と言うので源氏は思い出した。源典侍《げんてんじ》といわれていた人は尼になって女五の宮のお弟子《でし》分でお仕えしていると以前聞いたこともあるが、今まで生きていたとは思いがけないことであるとあきれてしまった。
「あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥《ふ》せる旅人』と思ってください」
 と言いながら、御簾のほうへからだを寄せる源氏に、典侍《ないしのすけ》はいっそう昔が帰って来た気がして、今も好色女らしく、歯の少なくなった曲がった口もとも想像される声で、甘えかかろうとしていた。
「とうとうこんなになってしまったじゃありませんか」
 などとおくめんなしに言う。今はじめて老衰にあったような口ぶりであるとおかしく源氏は思いながらも、一面では哀れなことに予期もせず触れた気もした。この女が若盛りのころの後宮《こうきゅう》の女御《にょご》、更衣《こうい》はどうなったかというと、みじめなふうになって生き長らえている人もあるであろうが大部分は故人である。入道の宮などのお年はどうであろう、この人の半分にも足らないでお崩《かく》れになったではないか、はかないのが姿である人生であるからと源氏は思いながらも、人格がいいともいえない、ふしだらな女が長生きをして気楽に仏勤めをして暮らすようなことも不定《ふじょう》と仏のお教えになったこの世の相であると、こんなふうに感じて、気分がしんみりとしてきたのを、典侍は自身の魅力の反映が源氏に現われてきたものと解して、若々しく言う。

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年|経《ふ》れどこの契りこそ忘られね親の親とか言ひし一こと
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 源氏は悪感《おかん》を覚えて、

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「身を変へて後《あと》も待ち見よこの世にて親を忘るるためしありやと
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 頼もしい縁ですよ。そのうちにまた」
 と言って立ってしまった。
 西のほうはもう格子が下《お》ろしてあったが、迷惑がるように思われてはと斟酌《しんしゃく》して一間二間はそのままにしてあった。月が出て淡い雪の光といっしょになった夜の色が美しかった。今夜は真剣なふうに恋を訴える源氏であった。
「ただ一言、それは私を憎むということでも御自身のお口から聞かせてください。私はそれだけをしていただいただけで満足してあきらめようと思います」
 熱情を見せてこう言うが、女王《にょおう》は、自分も源氏もまだ若かった日、源氏が今日のような複雑な係累もなくて、どんなことも若さの咎《とが》で済む時代にも、父宮などの希望された源氏との結婚問題を、自分はその気になれずに否《いな》んでしまった。ましてこんなに年が行って衰えた今になっては、一言でも直接にものを言ったりすることは恥ずかしくてできないとお思いになって、だれが勧めてもそうしようとされないのを、源氏は非常に恨めしく思った。さすがに冷淡にはお取り扱いにはならないで、人づてのお返辞はくださるというのであったから、源氏は悶々《もんもん》とするばかりであった。次第に夜がふけて、風の音もはげしくなる。心細さに落ちる涙をぬぐいながら源氏は言う。

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「つれなさを昔に懲りぬ心こそ人のつらさに添へてつらけれ
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『心づから』(恋しさも心づからのものなれば置き所なくもてぞ煩ふ)苦しみます」
「あまりにお気の毒でございますから」
 と言って、女房らが女王に返歌をされるように勧めた。

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「改めて何かは見えん人の上にかかりと聞きし心変はりを
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 私はそうしたふうに変わっていきません」
 と女房が斎院のお言葉を伝えた。力の抜けた気がしながらも、言うべきことは言い残して帰って行く源氏は、自身がみじめに思われてならなかった。
「こんなことは愚かな男の例として噂《うわさ》にもなりそうなことですから人には言わないでください。『いさや川』(犬上《いぬがみ》のとこの山なるいさや川いさとこたへてわが名もらすな)などというのも恋の成り立った場合の歌で、ここへは引けませんね」
 と言って源氏はなお女房たちに何事かを頼んで行った。
「もったいない気がしました。なぜああまで気強くなさるのでしょう。少し近くへお出ましになっても、まじめに求婚をしていらっしゃるだけですから、失礼なことなどの起こってくる気づかいはないでしょうのに、お気の毒な」
 とあとで言う者もあった。斎院は源氏の価値をよく知っておいでになって愛をお感じにならないのではないが、好意を見せても源氏の外貌《がいぼう》だけを愛している一般の女と同じに思われることはいやであると思っておいでになった。接近させて下にかくしたこの恋を源氏に看破されるのもつらく女王はお思いになるのである。友情で書かれた手紙には友情で酬《むく》いることにして、源氏が来れば人づてで話す程度のことにしたいとお思いになって、御自身は神に奉仕していた間怠っていた仏勤めを、取り返しうるほど十分にできる尼になりたいとも願っておいでになるのであるが、この際にわかにそうしたことをするのも源氏へ済まない、反抗的の行為であるとも必ず言われるであろうと、世間が作る噂《うわさ》というものの苦しさを経験されたお心からお思いになった。女房たちが源氏に買収されてどんな行為をするかもしれぬという懸念から女王はその人たちに対してもお気をお許しにならなかった。そして追い追い宗教的な生活へ進んでお行きになるのであった。女王は男の兄弟も幾人か持っておいでになるのであるが同腹でなかったから親しんで来る者もない。宮家の財政も心細くなった際に、源氏が熱心な求婚者として出て来たのであるから、女たちは一人残らず結婚の成り立つことばかりを祈っていた。
 源氏はあながちにあせって結婚がしたいのではなかったが、恋人の冷淡なのに負けてしまうのが残念でならなかった。今日の源氏は最上の運に恵まれてはいるが、昔よりはいろいろなことに経験を積んできていて、今さら恋愛に没頭することの不可なことも、世間から受ける批難も知っていながらしていることで、これが成功しなければいよいよ不名誉であると信じて、二条の院に寝ない夜も多くなったのを夫人は恨めしがっていた。悲しみをおさえる力も尽きることがあるわけである。源氏の前で涙のこぼれることもあった。
「なぜ機嫌《きげん》を悪くしているので
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