源氏物語
朝顔
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)噂《うわさ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|叔母《おば》

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(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]みづからはあるかなきかのあさがほと
[#地から3字上げ]言ひなす人の忘られぬかな (晶子)

 斎院は父宮の喪のために職をお辞しになった。源氏は例のように古い恋も忘れることのできぬ癖で、始終手紙を送っているのであったが、斎院御在職時代に迷惑をされた噂《うわさ》の相手である人に、女王《にょおう》は打ち解けた返事をお書きになることもなかった。九月になって旧邸の桃園の宮へお移りになったのを聞いて、そこには御|叔母《おば》の女五《にょご》の宮《みや》が同居しておいでになったから、そのお見舞いに託して源氏は訪問して行った。故院がこの御|同胞《はらから》がたを懇切にお扱いになったことによって、今もそうした方々と源氏には親しい交際が残っているのである。同じ御殿の西と東に分かれて、老内親王と若い前斎院とは住んでおいでになった。式部卿《しきぶきょう》の宮がお薨《かく》れになって何ほどの時がたっているのでもないが、もう宮のうちには荒れた色が漂っていて、しんみりとした空気があった。女五の宮が御対面あそばして源氏にいろいろなお話があった。老女らしい御様子で咳《せき》が多くお言葉に混じるのである。姉君ではあるが太政大臣の未亡人の宮はもっと若く、美しいところを今もお持ちになるが、これはまったく老人らしくて、女性に遠い気のするほどこちこちしたものごしでおありになるのも不思議である。
「院の陛下がお崩《かく》れになってからは、心細いものに私はなって、年のせいからも泣かれる日が多いところへ、またこの宮が私を置いて行っておしまいになったので、もうあるかないかに生きているにすぎない私を訪《たず》ねてくだすったことで、私は不幸だと思ったことももう忘れてしまいそうですよ」
 と宮はお言いになった。ずいぶん老人《としより》めいておしまいになったと思いながらも源氏は畏《かしこ》まって申し上げた。
「院がお崩《かく》れになりまして以来、すべてのことが同じこの世のことと思われませんような変わり方で、思いがけぬ所罰も受けまして、遠国に漂泊《さすら》えておりましたが、たまたま帰京が許されることになりますと、また雑務に追われてばかりおりますようなことで、長い前からお伺いいたして故院のお話を承りもし、お聞きもいただきたいと存じながら果たしえませんことで悶々《もんもん》としておりました」
「あなたの不幸だったころの世の中はまあどうだったろう。昔の御代もそうした時代も同じようにながめていねばならぬことで私は長生きがいやでしたが、またあなたがお栄えになる日を見ることができたために、私の考えはまた違ってきましたよ。あの中途で死んでいたらと思うのでね、長生きがよくなったのですよ」
 ぶるぶるとお声が震う。また続けて、
「ますますきれいですね。子供でいらっしった時にはじめてあなたを見て、こんな人も生まれてくるものだろうかとびっくりしましたね。それからもお目にかかるたびにあなたのきれいなのに驚いてばかりいましたよ。今の陛下があなたによく似ていらっしゃるという話ですが、そのとおりには行かないでしょう、やはりいくぶん劣っていらっしゃるだろうと私は想像申し上げますよ」
 長々と宮は語られるのであるが、面と向かって美貌《びぼう》をほめる人もないものであると源氏はおかしく思った。
「さすらい人になっておりましたころから非常に私も衰えてしまいました。陛下の御美貌は古今無比とお見上げ申しております。あなた様の御想像は誤っておりますよ」
 と源氏は言った。
「では時々陛下を拝んでおればいっそう長生きをする私になりますね。私は今日でもう人生のいやなことも皆忘れてしまいましたよ」
 こんなお話のあとでも五の宮はお泣きになるのである。
「お姉様の三の宮がおうらやましい。あなたのお子さんを孫にしておられる御縁で始終あなたにお逢いしておられるのだからね。ここのお亡《な》くなりになった宮様もその思召しだけがあって、実現できなかったことで歎息《たんそく》をあそばしたことがよくあるのです」
 というお話だけには源氏も耳のとまる気がした。
「そうなっておりましたら私はすばらしい幸福な人間だったでしょう。宮様がたは私に御愛情が足りなかったとより思われません」
 と源氏は恨めしいふうに、しかも言外に意を響かせても言った。
 女王《にょおう》のお住まいになっているほうの庭を遠く見ると、枯れ枯れになった花草もなお魅力を持つもののように思われて、それを静かな気分でながめていられる麗人が直ちに想像され、源氏は恋しかった。逢いたい心のおさえられないままに、
「こちらへ伺いましたついでにお訪《たず》ねいたさないことは、志のないもののように、誤解を受けましょうから、あちらへも参りましょう」
 と源氏は言って、縁側伝いに行った。もう暗くなったころであったが、鈍《にび》色の縁の御簾《みす》に黒い几帳《きちょう》の添えて立てられてある透影《すきかげ》は身にしむものに思われた。薫物《たきもの》の香が風について吹き通う艶《えん》なお住居《すまい》である。外は失礼だと思って、女房たちの計らいで南の端の座敷の席が設けられた。女房の宣旨《せんじ》が応接に出て取り次ぐ言葉を待っていた。
「今になりまして、お居間の御簾の前などにお席をいただくことかと私はちょっと戸惑いがされます。どんなに長い年月にわたって私は志を申し続けてきたことでしょう。その労に酬《むく》いられて、お居間へ伺うくらいのことは許されていいかと信じてきましたが」
 と言って、源氏は不満足な顔をしていた。
「昔というものは皆夢でございまして、それがさめたのちのはかない世かと、それもまだよく決めて思われません境地にただ今はおります私ですから、あなた様の労などは静かに考えさせていただいたのちに定《き》めなければと存じます」
 女王の言葉の伝えられたのはこれだった。だからこの世は定めがたい、頼みにしがたいのだと、こんな言葉の端からも源氏は悲しまれた。

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「人知れず神の許しを待ちしまにここらつれなき世を過ぐすかな
[#ここで字下げ終わり]

 ただ今はもう神に託しておのがれになることもできないはずです。一方で私が不幸な目にあっていました時以来の苦しみの記録の片端でもお聞きくださいませんか」
 源氏は女王と直接に会見することをこう言って強要するのである。そうした様子なども昔の源氏に比べて、より優美なところが多く添ったように思われた。その時代に比べると年はずっと行ってしまった源氏ではあるが、位の高さにはつりあわぬ若々しさは保存されていた。

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なべて世の哀ればかりを問ふからに誓ひしことを神やいさめん
[#ここで字下げ終わり]

 と斎院のお歌が伝えられる。
「そんなことをおとがめになるのですか。その時代の罪は皆|科戸《しなど》の風に追ってもらったはずです」
 源氏の愛嬌《あいきょう》はこぼれるようであった。
「この御禊《みそぎ》を神は(恋せじとみたらし川にせし御禊《みそぎ》神は受けずもなりにけるかな)お受けになりませんそうですね」
 宣旨は軽く戯談《じょうだん》にしては言っているが、心の中では非常に気の毒だと源氏に同情していた。羞恥《しゅうち》深い女王は次第に奥へ身を引いておしまいになって、もう宣旨にも言葉をお与えにならない。
「あまりに哀れに自分が見えすぎますから」
 と深い歎息《たんそく》をしながら源氏は立ち上がった。
「年が行ってしまうと恥ずかしい目にあうものです。こんな恋の憔悴《しょうすい》者にせめて話を聞いてやろうという寛大な気持ちをお見せになりましたか。そうじゃない」
 こんな言葉を女房に残して源氏の帰ったあとで、女房らはどこの女房も言うように源氏をたたえた。空の色も身にしむ夜で、木の葉の鳴る音にも昔が思われて、女房らは古いころからの源氏との交渉のあったある場面場面のおもしろかったこと、身に沁《し》んだことも心に浮かんでくると言って斎院にお話し申していた。
 不満足な気持ちで帰って行った源氏はましてその夜が眠れなかった。早く格子《こうし》を上げさせて源氏は庭の朝霧をながめていた。枯れた花の中に朝顔が左右の草にまつわりながらあるかないかに咲いて、しかも香さえも放つ花を折らせた源氏は、前斎院へそれを贈るのであった。
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あまりに他人らしくお扱いになりましたから、きまりも悪くなって帰りましたが、哀れな私の後ろ姿をどうお笑いになったことかと口惜《くちお》しい気もしますが、しかし、

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見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん

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どんなに長い年月の間あなたをお思いしているかということだけは知っていてくださるはずだと思いまして、私は歎《なげ》きながらも希望を持っております。
[#ここで字下げ終わり]
 という手紙を源氏は書いたのである。真正面から恋ばかりを言われているのでもない中年の源氏のおとなしい手紙に対して、返事をせぬことも感情の乏しい女と思われることであろうと女王もお思いになり、女房たちもそう思って硯《すずり》の用意などしたのでお書きになった。

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秋はてて霧の籬《まがき》にむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔

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秋にふさわしい花をお送りくださいましたことででももの哀れな気持ちになっております。
[#ここで字下げ終わり]
 とだけ書かれた手紙はたいしておもしろいものでもないはずであるが、源氏はそれを手から放すのも惜しいようにじっとながめていた。青鈍《あおにび》色の柔らかい紙に書かれた字は美しいようであった。書いた人の身分、書き方などが補ってその時はよい文章、よい歌のように思われたことも、改めて本の中へ書き載せると拙《つたな》い点の現われてくるものであるから、手紙の文章や歌というようなものは、この話の控え帳に筆者は大部分省くことにしていたので、採録したものにも書き誤りがあるであろうと思われる。
 今になってまた若々しい恋の手紙を人に送るようなことも似合わしくないことであると源氏は思いながらも、昔から好意も友情もその人に持たれながら、恋の成り立つまでにはならなかったのを思うと、もうあとへは退《ひ》けない気になっていて、再び情火を胸に燃やしながら心をこめた手紙を続いて送っていた。東の対のほうに離れていて、前斎院の宣旨を源氏は呼び寄せて相談をしていた。
 女房たちのだれの誘惑にもなびいて行きそうな人々は狂気にもなるほど源氏をほめて夢中になっているこんな家の中で、朝顔の女王だけは冷静でおありになった。お若い時すらも友情以上のものをこの人にお持ちにならなかったのであるから、今はまして自分もその人も恋愛などをする年ではなくなっていて、花や草木のことの言われる手紙にもすぐに返事を出すようなことは人の批評することがうるさいと、それも遠慮をされるようになっていつまでたってもお心の動く様子はなかった。
 初めの態度はどこまでもお続けになる朝顔の女王の普通の型でない点が、珍重すべきおもしろいことにも思われてならない源氏であった。世間はもうその噂《うわさ》をして、
「源氏の大臣は前斎院に御熱心でいられるから、女五の宮へ御親切もお尽くしになるのだろう、結婚されて似合いの縁というものであろう」
 とも言うのが、紫夫人の耳にも伝わって来た。当座はそんなことがあっても自分へ源氏は話して聞かせるはずであると思っていたが、それ以来気をつけて見ると、源氏の様子はそわそわとして、何かに心の奪われていることがよくわかるのであった。こんなにまじめに打ち込んで結婚までを思う恋を、自分
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