しむものに見た明石の浦の朝霧に船の隔たって行くのを見る入道の心は、仏弟子《ぶつでし》の超越した境地に引きもどされそうもなかった。ただ呆然《ぼうぜん》としていた。
長い年月を経て都へ帰ろうとする尼君の心もまた悲しかった。
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かの岸に心寄りにし海人船《あまぶね》のそむきし方に漕《こ》ぎ帰るかな
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と言って尼君は泣いていた。明石は、
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いくかへり行きかふ秋を過ごしつつ浮き木に乗りてわれ帰るらん
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と言っていた。追い風であって、予定どおりに一行の人は京へはいることができた。車に移ってから人目を引かぬ用心をしながら大井の山荘へ行ったのである。
山荘は風流にできていて、大井川が明石でながめた海のように前を流れていたから、住居《すまい》の変わった気もそれほどしなかった。明石の生活がなお近い続きのように思われて、悲しくなることが多かった。増築した廊なども趣があって園内に引いた水の流れも美しかった。欠点もあるが住みついたならきっとよくなるであろうと明石の人々は思った。源氏は親しい家司《けいし》に命じて到着の日の一行の饗応《きょうおう》をさせたのであった。自身で訪《たず》ねて行くことは、機会を作ろう作ろうとしながらもおくれるばかりであった。源氏に近い京へ来ながら物思いばかりがされて、女は明石《あかし》の家も恋しかったし、つれづれでもあって、源氏の形見の琴《きん》の絃《いと》を鳴らしてみた。非常に悲しい気のする日であったから、人の来ぬ座敷で明石がそれを少し弾《ひ》いていると、松風の音が荒々しく合奏をしかけてきた。横になっていた尼君が起き上がって言った。
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身を変へて一人帰れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
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女《むすめ》が言った。
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ふるさとに見し世の友を恋ひわびてさへづることを誰《たれ》か分くらん
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こんなふうにはかながって暮らしていた数日ののちに、以前にもまして逢《あ》いがたい苦しさを切に感じる源氏は、人目もはばからずに大井へ出かけることにした。夫人にはまだ明石の上京したことは言ってなかったから、ほかから耳にはいっては気まずいことになると思って、源氏は女房を使いにして言わせた。
「桂《かつら》に私が行って指図《さしず》をしてやらねばならないことがあるのですが、それをそのままにして長くなっています。それに京へ来たら訪ねようという約束のしてある人もその近くへ上って来ているのですから、済まない気がしますから、そこへも行ってやります。嵯峨野《さがの》の御堂《みどう》に何もそろっていない所にいらっしゃる仏様へも御|挨拶《あいさつ》に寄りますから二、三日は帰らないでしょう」
夫人は桂の院という別荘の新築されつつあることを聞いたが、そこへ明石の人を迎えたのであったかと気づくとうれしいこととは思えなかった。
「斧《おの》の柄を新しくなさらなければ(仙人《せんにん》の碁を見物している間に、時がたって気がついてみるとその樵夫《きこり》の持っていた斧の柄は朽ちていたという話)ならないほどの時間はさぞ待ち遠いことでしょう」
不愉快そうなこんな夫人の返事が源氏に伝えられた。
「また意外なことをお言いになる。私はもうすっかり昔の私でなくなったと世間でも言うではありませんか」
などと言わせて夫人の機嫌《きげん》を直させようとするうちに昼になった。
微行《しのび》で、しかも前駆には親しい者だけを選んで源氏は大井へ来た。夕方前である。いつも狩衣《かりぎぬ》姿をしていた明石時代でさえも美しい源氏であったのが、恋人に逢うがために引き繕った直衣《のうし》姿はまばゆいほどまたりっぱであった。女のした長い愁《うれ》いもこれに慰められた。源氏は今さらのようにこの人に深い愛を覚えながら、二人の中に生まれた子供を見てまた感動した。今まで見ずにいたことさえも取り返されない損失のように思われる。左大臣家で生まれた子の美貌《びぼう》を世人はたたえるが、それは権勢に目がくらんだ批評である。これこそ真の美人になる要素の備わった子供であると源氏は思った。無邪気な笑顔《えがお》の愛嬌《あいきょう》の多いのを源氏は非常にかわいく思った。乳母《めのと》も明石へ立って行ったころの衰えた顔はなくなって美しい女になっている。今日までのことをいろいろとなつかしいふうに話すのを聞いていた源氏は、塩焼き小屋に近い田舎《いなか》の生活をしいてさせられてきたのに同情するというようなことを言った。
「ここだってまだずいぶんと遠すぎる。したがって私が始終は来られないことになるから、やはり私があなたのために用意した所へお移りなさい」
と源氏は明石に言うのであったが、
「こんなふうに田舎者であることが少し直りましてから」
と女の言うのも道理であった。源氏はいろいろに明石の心をいたわったり、将来を堅く誓ったりしてその夜は明けた。なお修繕を加える必要のある所を、源氏はもとの預かり人や新たに任命した家職の者に命じていた。源氏が桂の院へ来るという報《しら》せがあったために、この近くの領地の人たちの集まって来たのは皆そこから明石の家のほうへ来た。そうした人たちに庭の植え込みの草木を直させたりなどした。
「流れの中にあった立石《たていし》が皆倒れて、ほかの石といっしょに紛れてしまったらしいが、そんな物を復旧させたり、よく直させたりすればずいぶんおもしろくなる庭だと思われるが、しかしそれは骨を折るだけかえってあとでいけないことになる。そこに永久いるものでもないから、いつか立って行ってしまう時に心が残って、どんなに私は苦しかったろう、帰る時に」
源氏はまた昔を言い出して、泣きもし、笑いもして語るのであった。こうした打ち解けた様子の見える時に源氏はいっそう美しいのであった。のぞいて見ていた尼君は老いも忘れ、物思いも跡かたなくなってしまう気がして微笑《ほほえ》んでいた。東の渡殿《わたどの》の下をくぐって来る流れの筋を仕変えたりする指図《さしず》に、源氏は袿《うちぎ》を引き掛けたくつろぎ姿でいるのがまた尼君にはうれしいのであった。仏の閼伽《あか》の具などが縁に置かれてあるのを見て、源氏はその中が尼君の部屋であることに気がついた。
「尼君はこちらにおいでになりますか。だらしのない姿をしています」
と言って、源氏は直衣《のうし》を取り寄せて着かえた。几帳《きちょう》の前にすわって、
「子供がよい子に育ちましたのは、あなたの祈りを仏様がいれてくだすったせいだろうとありがたく思います。俗をお離れになった清い御生活から、私たちのためにまた世の中へ帰って来てくだすったことを感謝しています。明石ではまた一人でお残りになって、どんなにこちらのことを想像して心配していてくださるだろうと済まなく私は思っています」
となつかしいふうに話した。
「一度捨てました世の中へ帰ってまいって苦しんでおります心も、お察しくださいましたので、命の長さもうれしく存ぜられます」
尼君は泣きながらまた、
「荒磯《あらいそ》かげに心苦しく存じました二葉《ふたば》の松もいよいよ頼もしい未来が思われます日に到達いたしましたが、御生母がわれわれ風情《ふぜい》の娘でございますことが、御幸福の障《さわ》りにならぬかと苦労にしております」
などという様子に品のよさの見える婦人であったから、源氏はこの山荘の昔の主《あるじ》の親王のことなどを話題にして語った。直された流れの水はこの話に言葉を入れたいように、前よりも高い音を立てていた。
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住み馴《な》れし人はかへりてたどれども清水《しみづ》ぞ宿の主人《あるじ》がほなる
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歌であるともなくこう言う様子に、源氏は風雅を解する老女であると思った。
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「いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人《あるじ》や面《おも》変はりせる
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悲しいものですね」
と歎息《たんそく》して立って行く源氏の美しいとりなしにも尼君は打たれて茫《ぼう》となっていた。
源氏は御堂《みどう》へ行って毎月十四、五日と三十日に行なう普賢講《ふげんこう》、阿弥陀《あみだ》、釈迦《しゃか》の念仏の三昧《さんまい》のほかにも日を決めてする法会《ほうえ》のことを僧たちに命じたりした。堂の装飾や仏具の製作などのことも御堂の人々へ指図《さしず》してから、月明の路《みち》を川沿いの山荘へ帰って来た。
明石の別離の夜のことが源氏の胸によみがえって感傷的な気分になっている時に女はその夜の形見の琴を差し出した。弾《ひ》きたい欲求もあって源氏は琴を弾き始めた。まだ絃《いと》の音《ね》が変わっていなかった。その夜が今であるようにも思われる。
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契りしに変はらぬ琴のしらべにて絶えぬ心のほどは知りきや
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と言うと、女が、
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変はらじと契りしことを頼みにて松の響に音《ね》を添へしかな
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と言う。こんなことが不つりあいに見えないのは女からいえば過分なことであった。明石時代よりも女の美に光彩が加わっていた。源氏は永久に離れがたい人になったと明石を思っている。姫君の顔からもまた目は離せなかった。日蔭《ひかげ》の子として成長していくのが、堪えられないほど源氏はかわいそうで、これを二条の院へ引き取ってできる限りにかしずいてやることにすれば、成長後の肩身の狭さも救われることになるであろうとは源氏の心に思われることであったが、また引き放される明石の心が哀れに思われて口へそのことは出ずにただ涙ぐんで姫君の顔を見ていた。子心にはじめは少し恥ずかしがっていたが、今はもうよく馴《な》れてきて、ものを言って、笑ったりもしてみせた。甘えて近づいて来る顔がまたいっそう美しくてかわいいのである。源氏に抱かれている姫君はすでに類のない幸運に恵まれた人と見えた。
三日目は京へ帰ることになっていたので、源氏は朝もおそく起きて、ここから直接帰って行くつもりでいたが、桂の院のほうへ高官がたくさん集まって来ていて、この山荘へも殿上役人がおおぜいで迎えに来た。源氏は装束をして、
「きまりの悪いことになったものだね、あなたがたに見られてよい家《うち》でもないのに」
と言いながらいっしょに出ようとしたが、心苦しく女を思って、さりげなく紛らして立ち止まった戸口へ、乳母《めのと》は姫君を抱いて出て来た。源氏はかわいい様子で子供の頭を撫《な》でながら、
「見ないでいることは堪えられない気のするのもにわかな愛情すぎるね。どうすればいいだろう、遠いじゃないか、ここは」
と源氏が言うと、
「遠い田舎の幾年よりも、こちらへ参ってたまさかしかお迎えできないようなことになりましては、だれも皆苦しゅうございましょう」
など乳母は言った。姫君が手を前へ伸ばして、立っている源氏のほうへ行こうとするのを見て、源氏は膝《ひざ》をかがめてしまった。
「もの思いから解放される日のない私なのだね、しばらくでも別れているのは苦しい。奥さんはどこにいるの、なぜここへ来て別れを惜しんでくれないのだろう、せめて人心地《ひとごこち》が出てくるかもしれないのに」
と言うと、乳母は笑いながら明石の所へ行ってそのとおりを言った。女は逢《あ》った喜びが二日で尽きて、別れの時の来た悲しみに心を乱していて、呼ばれてもすぐに出ようとしないのを源氏は心のうちであまりにも貴女《きじょ》ぶるのではないかと思っていた。女房たちからも勧められて、明石《あかし》はやっと膝行《いざ》って出て、そして姿は見せないように几帳《きちょう》の蔭《かげ》へはいるようにしている様子に気品が見えて、しかも柔らかい美しさのあるこの人は内親王と言ってもよいほどに気高《けだか》く見えるのである。源氏は几帳
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